短編集 『蜘蛛』
4:アラクネ
「いい加減、根負けしたわ。今晩私のうちに来て」
幾度も幾度も袖にされた久美子からようやく聞くことができた、色よい返事だった。
会社の同僚である久美子は、クールを通り越して冷酷無比と言っていいような女だ。
眼鏡をかけた知的な顔立ちは端整で美しいが、無表情で普段眉一つ動かすことはない。
義理や人情など全く省みることのない、無慈悲という言葉が似合うような仕事ぶり。
どこかお高くとまっていて、さもこちらを見下しているかのような人あたり。
そんな冷淡さの代名詞みたいな女である久美子だが、体つきは非常に蠱惑的だ。
ブラウスやスーツをこれでもかと押し上げる、むしゃぶりつきたくなるような豊満な胸。
そんな胸におよそ不釣り合い、いや反対に釣り合っていると言っていいくびれた腰つき。
タイトスカートに包まれ、歩くたびに揺れ動いて劣情を抱かせる尻。
その尻の下でストッキングに包まれる、細くて長い美脚。
すれ違った後、ニタニタとした好色な目つきで後姿を見送る男が絶えなかった。
そんな取り澄ましたクールな女がいやらしい体で仕事をしていれば、当然言い寄ってくる男も少なからずいる。
何を隠そう、俺もその一人だ。
だが久美子に言い寄った男の誰もが一様に、にべもない返事をもらうだけだった。
すなわち、みんな肘鉄を食らっているのである。
そいつは付き合っている特定の男がいるだけだろう、だって?
それは残念ながら、同僚の女性が否定している。
何かの折に久美子と世間話をした際、本人の口から「付き合っている人はいない」と言う言葉を聞いたらしいのだ。
だから久美子は今独り身のはずなのに、誰の誘いにも乗ることがないのである。
そういう状況だとわかると、こちらとしても躍起にならざるを得ない。
普段冷静沈着なあの久美子が、快楽に溺れる姿を見てみたいというのは、男なら誰しも思うことだろう。
俺は今まで以上に攻勢を強め、少々しつっこいくらいに彼女を口説いていった。
そして今日、やっと久美子は首を縦に振り、上記のような返事を聞くことができた。
これが嬉しくないはずがない。
終業時間になるまで俺は一切なんにも手をつかぬまま、気だけを逸らせていた。
やっとのことで仕事から開放され、俺と久美子は会社の外で落ち合って食事をする。
相変わらず高飛車で、どこか見下したような口調。
そのせいもあってか、ろくに会話も弾まない。
だがそれでも構わない。
そんな女が、数時間後には俺の腕の中でひいひい言っているのだ。
その乱れる様が、快楽を求めるその姿が、最高のコミュニケーションになるはずだ。
このクールで高慢ちきな女は、どんなはしたない声を上げるのだろう。
身持ちの固さから察するに、初めての可能性もあるかもしれない。
だとしたらこのあと、男性器を挿入される快感に酔いしれて、一気に女に目覚めるかもしれない……。
俺は腹の中でそんなことをつらつらと考えて、久美子にお追従を言うように会話を進めていった。
食事を終えて、俺たちは久美子の家の玄関を潜る。
さあ、お待ちかねの時間だ。
久美子の寝室には、なにか大きな箱のようなものがベッドの傍らに置かれていた。
俺は、特にその箱に注意を払うことなく、先にシャワーを浴びに行く。
シャワーを浴び終わって待っていると、後からシャワーを浴びた久美子がバスタオル一枚で現れる。
俺はその久美子のバスタオルを勢いよく剥ぎ取り、少々乱暴にベッドに押し倒した。
冷静で狼狽えたことなどない久美子が、どんなふしだらな表情で、どんな痴態を見せるのだろう。
食事中の妄想がすっかり発展してしまい、とにかくこのうずいた体を久美子にぶつけたくて仕方がなかった。
だが、ベッドの上でも久美子は変わらなかった。
どれだけ唇を重ね合わせ、抱きすくめ、体の各所を愛撫しても。
乳房や尻はもちろん、体の隅々まで、しまいには不浄の穴まで指や舌を這わせても。
どこをどんなふうに愛撫をしても、久美子はいつものように平然とたたずんでいた。
「……やっぱり、駄目ね」
男としてこれ以上ない屈辱的な科白に動揺して、顔を上げた時だった。
壁に、「なにか」が居た。
「あら、出てきちゃったの」
その「なにか」に気付いた久美子は、無造作にそれをつかんで先程の箱に入れた。
「丁度良かった。あなたに教えてあげる」
久美子はその箱を開く。
そこには、八本の足を持つ蟲――蜘蛛が大量に蠢いていた。
「私ね、この子達じゃないとダメなの」
つぶやくようにそう言うと久美子は、全裸のまま膝立ちになり両手で箱を高く掲げる。
その仕草はどこか気高くて凛としていて、彫刻で見るような水瓶を持つ女神に似ていた。
久美子は少しづつ箱を傾かせる。
それにつれて中身が少しずつ零れ出す。
美しい顔で、豊満な胸で、くびれた腰で、艶めかしい陰部で、スラリとした足で、久美子はそれを受け止める。
夥しい数の蜘蛛。蜘蛛。蜘蛛。それらが久美子の肢体を縦横無尽に這い回る。
普段の久美子とは思えない、理性が崩壊したような至福の嬌声。
いつもの冷徹な顔は消え失せ、目をとろんとさせ、口をだらしなく開け、悦楽に浸る淫らな表情。
陰裂からは、ぬらぬらとぬらついた愛液が滴り落ちて糸を引いていた。
その光景はまるで、久美子自身が一匹の巨大な蜘蛛女(アラクネ)のようだった。