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短編集 『蜘蛛』

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3:寄す処



昨年の秋ごろから、とても厳しい仕事に参加していた。

遅々として進まない進捗。
どこまでも際限なく増える残業時間。
それに反比例して毟り取られていく睡眠。
日増しにすり減り、蝕まれる神経。

淀んだ目で生欠伸をしつつ、重たい足取りで自宅と会社を往復する生活を続けていた。


師走の初旬のことだった。
辛い日々を送っていた私は、通勤の途上でとても興味深い光景を見かけた。

歩道の脇のスペースを利用して作られた、小さな花壇。
そこには、プレートで説明されている植物が生えていた。
それは当然の話なのだが、そこにはその植物とは別に、高さ15センチ程の雑草が蔓延っていた。
そんな12月の時期でも元気に生い茂る、浅学な私は名も知らないような雑草。
その雑草の合間に、一匹のクモが巣を作っているのだった。

おそらくナガコガネグモだと思われる黄と黒の体色を持つそのクモは、X字状に大きく開脚し堂々とした体躯を巣の上に浮かべていた。
クモがこのような花壇にいること自体は、別にさほど珍しいことではない。
しかし、今は十二月。
巣の中央でふんぞり返っているそのクモも、やはり寒風に曝されて若干震えているように見えた。

普通なら彼女達はその大半が秋、遅くとも晩秋には卵を孵化させて自身の生命を終えてしまう。
まれに室外機の側に巣を作った場合などは、その暖かさで長命に与ることもあるとは聞いている。
だが、ここはただの花壇。
暖かさを得る手段などどこにもない状況で、自身を蝋燭の灯火のように寒空にはためかせながらこのクモは生きているのだ。
それ故に私はこのクモの姿を珍しいと思い、「頑張れよ」と心中でエールを送ったのだった。


時が経ち、師走も中旬になった。
相変わらず、仕事の雲行きは芳しくない。
当然のように生じる休日出勤。
徹夜での作業も、連日当たり前のように発生する。
さらに恨めしいことに、年末年始の出勤も決まった。
それだけの時間を費やしてもなお、終わりは一向に見えてこない。

上司もイライラが募るのか、容赦ない怒号が飛んでくる。
私たち末端の者は、それを聞いて襟を正す。
だが心身ともに限界のこの状況では、その場を取り繕うのがせいぜいなのだ。

私はそんな過酷な日々を生きながら、通勤時に花壇を確認していた。
彼女はまだあの雑草の間に張り巡らされた巣の中央で、生命を維持していた。


慌ただしく時が去り、師走の下旬。
年末の足音も聞こえ始めるクリスマス前の日のこと。

仕事の状況は更に悪化し、どうにもならない状況に陥っていた。
精神的に参ってしまって出社できなくなる者が出始め、上司が代わりの人員を探している。
「明日は我が身だな」なんて冗談も、冗談に聞こえなくて笑えやしない。
それ以前にそんな話をしていたら、上司にどやされる。
まるで監獄のような環境で仕事を行っていた。

そんな絶望の地へと赴く前のお楽しみが、あのクモを見ることだった。
寝起きに思う「仕事場に行きたくない、体調不良で休んでしまおうか」という感情をなんとかねじ伏せるための動機づけ、それがクモだった。
元来クモは大嫌いなのだが、非人道的な上司よりはまだまだ分かりあえそうな気がした。

前述の通り、彼女達の命はせいぜい晩秋まで。
クリスマスを目前に控えた今、生存しているというだけでも奇跡なのだ。
私はたまに許された家への行き帰りにほんの数秒出会うだけのクモに、畏敬の念を抱くようになっていた。

それだけではない。
私はいつの間にか仕事の厳しさで、ともすれば折れかける心を「あのクモも頑張ってるんだ」という別の心の声で耐え忍んでいた。
そうすることで逃げ出したい気持ちをかろうじて抑え込み、仕事の荒波を乗り越えるようになっていた。

だが私と同様、彼女ももう限界が近い。
それに運命的なものを感じながら通勤時に花壇へと目をやり、安堵する日々が続いた。



やがて年が明けた。
お餅もお屠蘇もおせちも関係ない年明けを迎えることになった私は、いつも通りに花壇に目をやった。

クモはまだそこにいた。
だが足を一本失い、明らかに居住まいが弱々しい。
すでに満身創痍と言ってよかった。


仕事のほうは、年明けから急に落ち着きを見せ始めた。
成人の日を境に山を越え、一気に収束し始める。
一月の下旬には残業時間も減り始め、定時で帰れる日もちらほら出てきていた。

仕事が落ち着き始めて気が緩んだのか、私はしばらく花壇の確認を怠っていた。
再びクモの存在を思い起こしたときには、クモは巣ごとどこかへと消え失せていた。
だから私は、あのクモがいついなくなったのかを知らない。
もしかしたら場所を変えて、まだどこかで頑張っているかもしれない。
無論、そうではない可能性のほうが高いのは承知しているが。

だがあのクモが居なくなったのを知った時、悟ったことがあった。
私はあのクモのおかげで、今回のプロジェクトをなんとか乗り越えることができたのだ。

限りある生命を目一杯生き抜くクモの姿。
その姿にとてつもなく大きな力をもらっていたことに、全てが終わってからやっと気付かされたのだ。

いや、まだ全ては終わっていない。
私はあのクモに、とても大切なことも教わった。
私も彼女のように、限りある生を目一杯生きてやるんだ。

私はあのクモに多大な感謝をしつつ、会社に退職願を提出した。


作品名:短編集 『蜘蛛』 作家名:六色塔