短編集 『蜘蛛』
2:後家の色香
引っ越し屋のトラックが荷物を運び入れていた。
どうやら隣に誰かが越してきたらしい。
数時間後、チャイムが鳴る。
ご丁寧に挨拶までしてくれるみたいだ。
どんな人だろう。
きれいな女の人だといいなあ。
そう思いつつ扉を開けると、そこには人間大のクモがいた。
あまりの衝撃に固まっていると、そのバカでかいクモはすまなそうに言った。
「やっぱり、驚かせてしまいますよね」
自覚はあるらしい。
「隣の102号室に越してきた蜘蛛田です。決して人にはご迷惑をおかけしませんので、よろしくお願いいたします」
ペコリと頭部を下げ、脚に提げた袋を手渡してくる。
クモに名字がある上に何のひねりもない名字に驚いたが、とりあえず袋をあらためる。
「それ、ちょうちょの詰め合わせです。近くで売っていたので」
昆虫標本だ。
食用じゃないし人はそもそもちょうちょを食べない。
あとタオルも入っている。
「私お裁縫が得意なので、自作のタオルを」
そら、糸を使う作業は大得意でしょうね。
とりあえずよろしくお願いして扉を締め、標本をゴミ箱に投げ捨てる。
タオルは実用的なのでもらっておくことにした。
しかし、あんな大きなクモが隣りにいて生活できるのだろうか。
心配しつつ、その日の生活を終えた。
私の考えとは裏腹に、翌日から蜘蛛田さんは活躍し始めた。
「あら、ありがとう。助かるわぁ」
声がするので起きてみると、2階に住む高橋さんが蜘蛛田さんに感謝の言葉を述べていた。
何でも蜘蛛田さんが数分で、このアパートのGやネズミを全部追い出したらしい。
高橋さんの感謝の言葉に、照れてるのか頭部を一番前の脚でさする蜘蛛田さん。
そんな二人を見て、何か腑に落ちないものを感じながら部屋に戻った。
2週間が経った。
蜘蛛田さんはすっかりアパートの人気者となっていた。
Gやネズミの駆除の上手さ、その上裁縫が得意、さらに快活で社交的。
これが、人気者にならないわけがない。
だが私は、彼女とはつかず離れずの位置を保っていた。
もちろんアパートから害虫害獣が消えたことは評価してるし、彼女のおかげで雰囲気が明るくなったのも確かだ。
だが、やっぱり腑に落ちない。
みんな彼女の外見に違和感はないのだろうか。
もちろん外見で差別をするのは良くない、それは重々承知している。
しかし人間と同じ大きさの異形の存在が、そこらをうろついているのだ。
もっと危機感を持ったほうがいいんじゃないだろうか。
そんな事を考えていたら、回覧板が届いた。
次に届けるのは、当然隣の蜘蛛田さん宅。
私は憂鬱な気持ちでつっかけに足を入れた。
「あら、久井さん」
蜘蛛田さんは、いつも通り快活だ。
後ろには、大量の小グモが興味深々でこちらを見ている。
私は回覧板を届けにきた旨を告げ、それを蜘蛛田さんに手渡す。
「ありがとうございます」
蜘蛛田さんはその回覧板を脇において言う。
「せっかくですから、少し上がっていって」
私が断ると、蜘蛛田さんは私の腕を脚2本使って引き止める。
「ね。少しぐらいいいでしょう」
仕方なく部屋に上がると、彼女はお茶とお菓子を持ってくる。
そして、先日の引っ越し挨拶の際に渡した標本の件を侘びた。
「すみません。人間は昆虫を食べないのを失念してました。まだまだこの生活は不慣れで……」
「いえ、蜘蛛田さんは評判も良いし、頑張っていらっしゃいますよ」
「ありがとうございます」
彼女がそう言い終えた瞬間、ふすまが少し開いて小グモたちの一人あたり8個の眼がのぞく。
「こら。あっちで遊んでなさい」
再びふすまがピシャリと閉められる。
「ごめんなさい。夫を亡くして片親なものですから、しつけが行き届かなくて……」
「子どもはわんぱくなぐらいがいいですよ」
「……久井さんは、お優しいんですね」
蜘蛛田さんはそう言うと、茶碗をつかむ私の手に自分の脚を一本すっと重ねる。
うなだれる頭部、荒い呼吸、7本の脚は急にしなを作ったような角度になる。
どことなく、部屋の雰囲気も変わったような感じだ。
私は心底嫌な気持ちになり、すぐに引き上げようとした……つもりだった。
だが。
丸っこくてクリクリした眼。
細くてスラリとした脚なのに、剛毛が生えているギャップ。
人間の女よりキュッと引き締まったウエスト。
そのウエストが際立たせる、大きくて魅惑的なお尻。
あの眼と見つめ合い、8本の脚にしっかりと抱きすくめられ、あの体と存分に愛し合いたい……。
思わず脚を握り返そうとした瞬間、あることを思い出す。
『クモのメスは、交尾後にオスを食べてしまう』
さっき、蜘蛛田さんは夫を亡くしていると言った。
つまり……。
私は一気に血の気が引いた。
そして、ゆっくりと茶碗から手を離して引っこめる。
蜘蛛田さんは一瞬残念そうな顔をした後、いつもの快活さを取り戻した。
「そろそろ、失礼します」
「そうですか。回覧板、ありがとうございました」
私は逃げるように自宅に戻った。
まだ心臓がドキドキしている。
これは恋なのか。
それとも、死への恐怖なのか。
どちらにしても私は、蜘蛛田さんの魅力に気づいてしまった。
クモの巣にかかった虫のように。
きっと近いうち、彼女に手を出してしまうだろう。
死と引き換えにしても良い、という覚悟さえできてしまえば。
彼女との最初で最後の交尾を夢想しながら、私は蜘蛛田さんの側の壁を熱っぽい目で見つめた。