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短編集 『蜘蛛』

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1:馴れ初め



夏の匂いがまだまだ残る、九月の日曜日のこと。
その日、たまたま遊び相手がいなかった幼少期の僕は、暇でやることがありませんでした。

あまりにも退屈な僕は、なにか刺激的な遊びはないだろうかと考ました。
そして考えあぐねた結果、母にどうしたらいいか聞こうと思ったのです。

僕は母に、することがない旨を訴えました。
母は、そんな僕の方を見向きもせずに言います。
「外へ遊びに行ってらっしゃい」

我が家は、父を早くに亡くしていました。
そのため母は忙しく働いており、僕と遊べるような状況ではなかったのです。

そのことは僕も幼心に十分わかっていました。
なので、家にいて母に迷惑をかけるわけにはいかないと痛感したのです。
そういった事情もあって、僕は母の言う通り家を出たのでした。


外はまだまだ蒸し暑く、半袖でも汗ばむような暑さです。
その暑さの中で、僕は何をしようか考えました。

友達の家に行こうか、一人で遊ぼうか、いろいろ考えながらまだセミの鳴く屋外を歩きます。
するとそのとき、フッと目の前になにかが跳んでいくのが見えたのです。

それは、はたはたと羽根のようなものをはためかせ、少し先の路上に落ちました。
僕は、駆け寄ってその正体を確かめます。
それは、大きな大きなバッタでした。

そのバッタは、今まで見たどのバッタよりも大きく(恐らくトノサマバッタのメスだったのでしょう)、
まるまると肥え太った立派な体躯をしていました。
それを見た僕は、なにかキレイな宝石でも見つけたかのように心を躍らせたのです。

もう大人になってしまった今では、バッタにそれほど興味はわきません。
ですが当時の僕は、昆虫が大好きでした。

これを捕まえたら、きっと友達に自慢できるぞ。
そう考えた僕は、両手でそのバッタを上から押さえつけたのです。

ジタバタと手の内で暴れまわるバッタをつかみ、まじまじと眺めます。
普段のバッタの数倍の大きさで、腹等の部分を大きく躍動させるその様子は、今なら卒倒しかねない気持ち悪さですが、当時は格好良く思えたものでした。

僕はウットリとしつつ、そのバッタを眺めます。
しかしその拍子に、バッタをつかむ手が緩んでしまいました。

その一瞬の緩みを見逃すはずもなく、バッタは手をするりとすり抜け跳んでしまいます。
僕は慌ててつかみ直そうとしましたが、もう後の祭りです。
バッタはその驚異的な跳躍力で、近くの草むらへ逃げ込んでしまいました。

翌日友達に自慢しようと思っていた僕は、がっかりしてしまいました。
自分が悪いとは言え、むざむざ掌中の珠を手放してしまったのです。
何とかして今のバッタを取り戻したい。
明日みんなに見せびらかしたい。
僕はたった今バッタが飛び込んだ草むらを、ジッと見つめました。

そうだ。
もう一度、捕まえればいい。
もう一度ちゃんと、捕まえればいいんだ。
そう考えた僕が草むらへと入っていくのは、そう時間のかかることではありませんでした。


草むらに入った僕は、足元をずっと見つめていました。
あのバッタは体が大きくて重かった、草にしがみついても自重で落ちてしまうだろう、ってことはあのバッタは地面にいる、子供心にそう考えたからです。

僕は、下を向きながら草むらの中にどんどんと歩を進めていきました。

でも、なかなかあのバッタは見つかりません。
小さいバッタやコオロギなどのような、おなじみの面々が地を這うだけです。

もっと草むら全体を探さなきゃ、あのバッタは見つからない。
僕はそう考え、更に草むらの奥へと足を踏み入れました。

草の丈は、もう僕の背を優に超えていました。
そのせいでしょうか、周囲が薄暗く感じられてきます。
それでもあのバッタを捕らえたくて僕は、俯きながら草むらを進んでいったのです。

そして、ある瞬間。
僕は、ふっと「何か」の気配を感じました。
得も言われぬ、強大な圧力のようなその気配を。

それは、目の前にいる。
僕のほんの少しだけ、前にいる。
直感で感じ取ったのです。

ずっと大地を見ていた僕はそのとき初めて、草むらで顔を上げました。

その「何か」はまさに僕の眼前、ほんの数センチの場所にたたずんでいました。

粘りつく糸
細長い下半身。
くびれた腰。
黒と黄の縞模様。
八本の足。

そう。
巨大な女郎蜘蛛が、周囲の草を利用してちょうど僕の顔の高さに巣を作っていたのです。

僕はその女郎蜘蛛に目の当たりにした瞬間、怖気を振るいました。

体色の毒々しさ。
多脚の気持ち悪さ。
巣網の不自然な規則性。
そこにいることの威圧感。

それが顔の数センチ前に、立ちはだかっているのです。

それだけではありません。
僕が気配を感じていなかったら、どうなっていたでしょう。

きっとこの女郎蜘蛛の巣に頭から突っ込んで、頭や顔を蜘蛛が……。
これ以上は、恐ろしくて書き記せません。

僕は一歩一歩、ゆっくりと後ずさりをして蜘蛛から離れていきました。
バッタのことなど、すでに頭の片隅にもありませんでした。
とにかく、この異形の化物から逃げたい、この場から一刻も立ち去りたい、それだけでいっぱいだったのです。


無事に草むらを出た僕は、家に飛んで帰りました。
そして母に抱きつき、泣きじゃくりながら一部始終を話したのです。

仕事が一段落して一息ついていた母は、そんな僕をしっかり抱きしめてくれたのでした。

作品名:短編集 『蜘蛛』 作家名:六色塔