北へふたり旅 21話~25話
料理はきらいではない。
さいしょについた仕事が板前だ。
50年前。見習いとして入り、旅館の板場で調理修行がはじまった。
和食の職人は、一年中素足。
冷たいコンクリート床のうえで、一年中、素足に下駄が定番。
江戸時代のような職場だなここは、と直感したのを今でも覚えている。
職人は、「見て覚えろ」がすべて。
見習いはまず、洗い場にまわされる。
鍋を、ピカピカになるまで磨くのが仕事。
鍋の汚れに意味がある。
煮物、焚き物、汁もの、全ての味が鍋の壁にこびりついている。
指先にこすりつけ、それらの味をひとつひとつ覚えていく。
調理職人は、味覚を鍛えることが最初の一歩。
そのことに気がつかない新人はつぎの仕事をあたえられず、半年たっても
まだ洗い物の場に居る。
かんたんにつくった料理の夕食がはじまる。
退院して一週間。妻の右手はまだ、おぼつかない。
食事がおわると、お待ちかねの、風呂の時間がやってくる。
今日も妻が嬉しそうに席をたつ。
「ねぇ。髪も洗ってほしいんだけど。甘えてもいいかしら?」
反論の余地はない。
「まかせろ」とこたえる。こちらもパンツ一枚になる。
全裸の妻が背中を見せて座る。
「ふっくらしたね」と言えば、「あなたほどではないですが」と
涼しい声がかえってくる。
髪を洗う。つづけて石鹸をつかう。
妻の背中があわだらけになる。
「前は自分で洗え」
「あら。洗えないから頼んでいるんじゃないの。
遠慮しないで、この際だもの」
妻がくるりと向きを変える。
シャワーの温度を確認する。全身の泡をきれいに洗い流す。
「ありがとう。生き返りました。今日も。うふふ」
「どういたしまして。
この歳で三助修行するとは思わなかったなぁ。俺も。
あはは」
(23)へつづく
作品名:北へふたり旅 21話~25話 作家名:落合順平