Transfix
言い回しは違うけど、内容は全く同じだった。その時気づいた。お爺さんは間違えているだけではなく、毎日、同じ行動を繰り返しているということに。誰もいないときは、何も話さずベンチに座っているのかもしれない。わたしは、お爺さんの思っている『誰か』じゃない。でも、『買っておいで』という言葉の響きが好きで、それから何回か訪れている。新しい仕事は順調だし、少しでも総合職をかじった経験のあるわたしは、実務を理解している事務員として、重宝されている。そうやって、社会人として最初にやってくる険しい山道は、とりあえず通り抜けた。お爺さんにお礼さえ伝わればと思うけど、それだけは叶わないことなのかもしれない。お爺さんは、いつも同じことを話す。ベンチを訪れる時間すら同じだ。広げた手の中にある硬貨も、一枚に傷が入っているから、それで同じお金なんだと分かる。お爺さんに見えている相手は『マサキ』に何かを買ってもらえないらしく、それが誰なのかは分からない。
日曜日の昼、三嶋と昼ご飯を食べているときに、その話をした。三嶋は自宅待機をずっと続けていて、熱中しているアニメの話をするときの声はテンションが高いけれど、表情はいつもより曇っていた。
「いい話だなー。病み期にそんなことがあったんだね」
三嶋は面倒そうにマスクをつけながら、言った。
「学生時代と違って、毎日とか会わないじゃない。まとめて聞くと感慨深いよ」
まさに言う通りで、この話自体、誰かに話すのは初めてだった。三嶋はマスクの位置を調整しながら言った。
「結果が見えてくるまでは、話せないこともあるよね」
「お礼を言いたいんだよ。でも、伝わる気がしないんだ」
わたしが言うと、三嶋は難問を前にしたように首を傾げた。去年彼氏ができてから、何かが分からないときは、目を見開く代わりに、首を少し傾げるようになった。
「そのお爺さんは記憶をなぞってるんだよね。そこに入り込むのは難しいよ。それなら、別の場所で会ってみるとか?」
「いつも、ベンチに来るんだよ。その手前で話しかけたらいいかな?」
「いや、後のほうがいいね。一旦会話が終わらないと、別人だってことに気づかないかも」
三嶋は本屋に立ち寄りたそうにしていたけど、賑わっている店内を見て、諦めたように目を逸らせた。
「寄らないの?」
「うん、ちょっと混んでるし」
そう言って、三嶋は寂しそうに背中を丸めた。昔は本屋に入ったきり、二人で漫画のコーナーに入り浸って、狭いコーナーをうろうろしながら何時間も立ち話をしていた。今日も寄るものだと思っていたけど、三嶋は健康のことが気がかりみたいで、マスクの位置をまた調整しながら言った。
「名刺渡してみるとか?」
「お爺さんの話? いやー、それは無理だよ」
そう言うと、三嶋はわたしの背中をぽんと押した。
「そこでシャイになるの? もう友達でしょ?」
わたしが、お爺さんの思う『誰か』であることは間違いなかったけど、友達とまでは正直言いづらい。
喫茶店に寄ってもう少しだけ話した後、思ったより早く解散になって、駅で三嶋を見送ったわたしは腕時計を見た。一人でいても考えつかないことが、三嶋と話したことで色々と頭に湧いていた。結局家には帰らず、二日連続であの駅を訪れた。
空っぽの自転車置き場、線路の向かい側には廃墟。時間はいつもより早い。太陽は斜め上から照らしていて、雲一つない快晴だ。でも、今回はベンチに座らない。わたしは、話し終えたお爺さんがいつも歩いていく坂道を上がり始めた。すぐに個人商店が見えて、軒先で花に水をやっている店主が、ぺこりと頭を下げた。わたしも同じようにして、窓に貼られた『藤木商店』という名前を目に留めた。
「こんにちは」
わたしが言うと、店主も同じように『こんにちは』と返して、じょうろから逸れた水がアスファルトの上に模様を作った。それとなく店内に入ったわたしは、家で食べるためのお菓子をいくつか選んで、レジに戻ってきた店主に差し出しながら言った。
「あ、あの。この道をよく散歩されている年配の方、ご存じないですか」
店主には何人か候補がいたらしく、続けて事情を話すと、一人に絞り込めたように小さく息をついた。
「それは多分、弘原さんですね。ちょっとね、痴呆が入ってしまって」
自分が一番確信していることなのに、人から言われると、やはりその言葉の響きは険しかった。店主は記憶を探るように言った。
「藤木と名乗ってますが、私も婿養子で入ったものですから、歴史はあまり知らないんですよ。ただ、弘原さんの家は坂の上です。昔は弘原さんと、弘原さんの弟一家が、その家に住んでたはずです」
「今はお一人なんですか?」
「私がここに来たのは二十年前ですけど、その時はすでに一人で住んでましたね」
藤木さんはそう言うと、忘れていたように商品のバーコードを読み取り始めた。わたしは財布から硬貨を出しながら、言った。
「マサキさんって、どなたのことか分かりますか?」
「多分、弟さんの名前ですね」
その言葉にうなずきながら、思った。ということは、わたしは『弟一家の子ども』と思われているのだろうか。小さな袋に入ったお菓子を受け取ると、わたしはお礼を言って店から出た。せっかくの商店なのに、駅前にないのが不思議だった。すぐそこに駅があるのに、わざわざ住宅街に入ったところにひっそりと建っている。わたしは、駅までの道を戻って、踏切を渡った。反対側は田んぼが広がっていて、何人かが農作業をしているのが遠目に見える。しばらく歩き回ったあと、駅の前に戻ってきたわたしは、いつも駅前に佇んでいる廃墟を見つめた。間違い探しのように、所々が変わっている。最初に見た時は地面に突っ伏していた看板も、誰かが起こしたのか、今は横向きに寝かされている。わたしは思わず足を止めた。掠れて消えかけているけど、藤木という文字がはっきり読める。昔は、ここが藤木商店だったんだ。わたしは踏切を渡ると、藤木商店までの坂道を上がった。がらりと扉を開けると、藤木さんが奥さんらしき女の人と話していて、わたしの顔を見るなり目を丸くした。
「あっ、何か入れ忘れてましたか」
「いえ、それは大丈夫なんですけど。あの、駅前にある建物で経営してらしたんですか?」
わたしが言うと、奥さんらしき人がうなずいた。
「そうです、親の代はあそこで商売してました。壊すにもお金がかかるんで、あのままにしてます」
「それだけじゃないでしょ。光子、旧店舗に愛着あるんだよな」
藤木さんが言うと、光子さんは困ったような顔でうなずいた。
「まあ……。あの店で育ったようなものだし」
いつも聞いている話なのか、藤木さんは苦笑いを浮かべると、わたしの方を向いた。
「ちょうど今、弘原さんの話をしてまして。私も全然知らなかったんですが」
「何度も話してるわよ」
光子さんが笑いながら抗議するように言うと、藤木さんは肩をすくめながら続けた。
「マサキさんってのは、弘原さんの弟さんで間違いないです。で、いつもお菓子を買ってくれようとするんですよね?」
硬貨の意図は分かっていなかったけど、それで間違いないだろうと思って、わたしはうなずいた。