Transfix
「買っておいで」
ベンチで隣に座るお爺さんが、わたしに向かって言った。夕日が真正面からわたし達を照らしているけど、もうすぐ雲の塊が覆ってしまうだろう。あれだけ勢いのあった太陽も、その後はまだらに続く雲に隠れながら、照らしたり暗くなったりを繰り返している内に落ちてしまって、夜になる。わたしは、お爺さんが差し出した古い硬貨を見て、微笑みながら小さく頭を下げた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「いつもマサキは買ってくれんゆうて、ごねとるのに」
しばらく沈黙が流れて、間を持たせるように空が少しだけ暗くなった。さっきの雲が流れてきて、まだ輪郭が橙色に光っている。
「今日じゃないか……」
お爺さんは呟きながら、立ち上がった。一度振り返って『ついてこないのか』とでも言うように、わたしの方を見ていたけど、それもやがて諦めて、一戸建てが並ぶ住宅街のほうへ帰っていった。住宅街といっても、川の地形に合わせて作られたような道路に、その道路の形に合わせて作られたような家が並ぶ、田舎の町だ。今わたしが座るベンチも、駅から見える場所に置いてあるものだけど、人通りはあまりない。
わたしが立ち上がると、駅から一番近い踏切が音を鳴らして、遮断機をぎこちなく下ろし始めた。駅の入口は両側にあって、反対側に渡るための階段や通路なんてものは、構内には存在しない。踏切の前でしばらく待っていると、かなり遅れてから快速が猛スピードで通りすぎて、空気が揺れた。
社会に出て二年目の、土曜日の夕方。二十四歳というのは、お母さんがわたしを産んだ年。今の自分には想像もつかない。開いた踏切をくぐって、乗換駅までの切符を買う。わたしが乗る電車は申し訳なさそうに走る各駅停車で、いつ快速に追い越されるか計算しながら、その度に止まったり避けたりして、快速が見向きもしない駅に乗客を運んでいる。
乗換駅に着いて、自宅の最寄り駅まで続く電車に乗ると、乗客は一気に増える。以前ほどではないにしても、それでも誰かが絶対にいる。借りているアパートはスーパーが近くて、不動産屋さんはそれをアピールポイントにしていた。近隣施設を書く欄には『スーパーマーケット』とだけあって、その下に大きな空白があったけど、大学卒業を間近に控えたわたしは、ちゃんと考えていなかった。引っ越しを終えて、スーパーで買い物デビューを果たしたわたしは、そのスーパーマーケット以外、本当に何もない場所だということに気づいた。自転車を買ってどうにかなったけれど、何をするにも気合が必要だ。前の会社の同期は皆、『もう二駅先が街なのに。佳苗ちゃんらしいよ』と言って笑った。
わたしはずっと、自分のことをピンボケになった写真みたいなものだと思っていた。じっと見ていると何の写真か分かるけど、ほとんどの人は気づかないし、同じものをくっきりと撮った写真なら、他にもたくさんある。
要塞のように堂々と光るスーパーで買い物を済ませて、わたしは家に戻った。これで、土曜日が終わる。洗濯、掃除、駅のベンチ、買い物、帰宅。箇条書きにすると五行のイベントで、一日が過ぎた。明日は朝から『二駅先の街』で、暗黒の高校時代を共に過ごした三嶋と、半年ぶりに会うことになっている。鍋本佳苗という名前は、付き合いが始まった時代ごとに違うあだ名を得ていて、高校時代の友達でも特に親しい三嶋は『なべちゃん』、それ以外は『なべさん』と呼ぶ。社会人になって初めて『鍋本くん』と上司から呼ばれた。同期からは『佳苗ちゃん』、そして研修を担当していた先輩からは『ナベ』。
最後の呼び名。呼ばれたら三秒以内の返事を強いられていた新卒時代に、わたしは一度心を壊した。スイッチを入切するように切り替えられる同期が、本当に羨ましかった。飲み会になると決まって愚痴大会になったけど、みんな、まるでゲームの中で経験したことみたいに話す。それこそ、会社であったことなんて、自分の人生には関係がないことのように。わたしはその切替ができなかった。家から会社に通っているというよりは、会社から解放されて家に戻っている感覚だった。通勤に使っていたのは、あの快速電車。色が少し違うだけで、スピードは別物だった。
あの駅のベンチを訪れるのは、初めてじゃない。去年、研修が終わって実務が始まる直前。体調不良からの早退を繰り返していたわたしは、間違えてあの駅で降りた。その前に、乗る電車自体を間違えていた。快速の次にやってきた各駅停車に乗ったのだ。いつもなら、乗った電車が動き出して次に止まったら乗換駅だから、座席で目を閉じていたわたしは、車両が止まったことを察知して、何も考えずに下りた。電車が走り去ってから、ようやく気づいた。日は暮れかけていて、しわの寄ったリクルートスーツを着ているわたしを見た小学生たちが、困惑した様子で『こんにちは』と挨拶をしてくれたのを、今でも覚えている。
駅前とは思えない、田舎だった。コンビニかと思った建物は廃墟で、商売に関わる全てを諦めたように、看板が地面に落ちていた。廃墟の前で現在地を調べると、乗った駅から四駅も離れていた。わたしは『電車が止まったら、そこが降りる駅』というルールを三回も見逃していたことになる。なんとなく踏切を渡って、あのベンチに座ったとき、遮断機がぎこちなく閉まって、快速が通り抜けていった。自分が何も考えずに乗っていた電車の速さに驚くのと同時に、足がすくんで動けなくなった。また戻らないといけない。でも、大縄跳びを途中で抜けたときみたいに、どうやって足を踏み入れていいのか、分からなくなった。何時間座っていたのかは、覚えていない。空は雲が多くて、いつの間にか全体的に赤みがかっていたけど、夕日の姿は見えなかった。切れ端から少しだけ光が見えたとき、いつの間にか隣に座ったあのお爺さんが、言った。
『勝手に歩き回ったらあかんがな』
最初の言葉がそれだったから、わたしは思わず『すみません』と返した。お爺さんは、人は走り回るものだと諦めているらしく、それ以上は何も言わなかった。どちらもしばらく黙っていたけど、お爺さんが小銭入れから何枚か硬貨を出して、わたしに笑いかけた。
『買っておいで』
雲が切れて、眩しいぐらいの夕日がその手を照らした。古い小銭で、傷がついている物もあった。誰かと勘違いしている。孫かもしれない。すぐにそう気づいたけど、その硬貨を丁重に断ったわたしは、自然と足に力が戻ってきたことに、自分でも驚いていた。
『ありがとうございます』
そう言って、わたしは踏切を渡った。お爺さんは怪訝な顔をしていたけど、散歩コースのような道に戻っていった。それから数か月が経って、わたしは念願の転職を果たした。その報告というつもりではなかったけど、何らかのお礼を言おうと思って、会える確信もないまま、またあの駅に行った。前と違って今度は休日だったけど、ベンチに座っていると、隣にお爺さんが座った。わたしがお礼を言うよりも早く、お爺さんは言った。
『勝手に歩き回ってほんまに』
ベンチで隣に座るお爺さんが、わたしに向かって言った。夕日が真正面からわたし達を照らしているけど、もうすぐ雲の塊が覆ってしまうだろう。あれだけ勢いのあった太陽も、その後はまだらに続く雲に隠れながら、照らしたり暗くなったりを繰り返している内に落ちてしまって、夜になる。わたしは、お爺さんが差し出した古い硬貨を見て、微笑みながら小さく頭を下げた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「いつもマサキは買ってくれんゆうて、ごねとるのに」
しばらく沈黙が流れて、間を持たせるように空が少しだけ暗くなった。さっきの雲が流れてきて、まだ輪郭が橙色に光っている。
「今日じゃないか……」
お爺さんは呟きながら、立ち上がった。一度振り返って『ついてこないのか』とでも言うように、わたしの方を見ていたけど、それもやがて諦めて、一戸建てが並ぶ住宅街のほうへ帰っていった。住宅街といっても、川の地形に合わせて作られたような道路に、その道路の形に合わせて作られたような家が並ぶ、田舎の町だ。今わたしが座るベンチも、駅から見える場所に置いてあるものだけど、人通りはあまりない。
わたしが立ち上がると、駅から一番近い踏切が音を鳴らして、遮断機をぎこちなく下ろし始めた。駅の入口は両側にあって、反対側に渡るための階段や通路なんてものは、構内には存在しない。踏切の前でしばらく待っていると、かなり遅れてから快速が猛スピードで通りすぎて、空気が揺れた。
社会に出て二年目の、土曜日の夕方。二十四歳というのは、お母さんがわたしを産んだ年。今の自分には想像もつかない。開いた踏切をくぐって、乗換駅までの切符を買う。わたしが乗る電車は申し訳なさそうに走る各駅停車で、いつ快速に追い越されるか計算しながら、その度に止まったり避けたりして、快速が見向きもしない駅に乗客を運んでいる。
乗換駅に着いて、自宅の最寄り駅まで続く電車に乗ると、乗客は一気に増える。以前ほどではないにしても、それでも誰かが絶対にいる。借りているアパートはスーパーが近くて、不動産屋さんはそれをアピールポイントにしていた。近隣施設を書く欄には『スーパーマーケット』とだけあって、その下に大きな空白があったけど、大学卒業を間近に控えたわたしは、ちゃんと考えていなかった。引っ越しを終えて、スーパーで買い物デビューを果たしたわたしは、そのスーパーマーケット以外、本当に何もない場所だということに気づいた。自転車を買ってどうにかなったけれど、何をするにも気合が必要だ。前の会社の同期は皆、『もう二駅先が街なのに。佳苗ちゃんらしいよ』と言って笑った。
わたしはずっと、自分のことをピンボケになった写真みたいなものだと思っていた。じっと見ていると何の写真か分かるけど、ほとんどの人は気づかないし、同じものをくっきりと撮った写真なら、他にもたくさんある。
要塞のように堂々と光るスーパーで買い物を済ませて、わたしは家に戻った。これで、土曜日が終わる。洗濯、掃除、駅のベンチ、買い物、帰宅。箇条書きにすると五行のイベントで、一日が過ぎた。明日は朝から『二駅先の街』で、暗黒の高校時代を共に過ごした三嶋と、半年ぶりに会うことになっている。鍋本佳苗という名前は、付き合いが始まった時代ごとに違うあだ名を得ていて、高校時代の友達でも特に親しい三嶋は『なべちゃん』、それ以外は『なべさん』と呼ぶ。社会人になって初めて『鍋本くん』と上司から呼ばれた。同期からは『佳苗ちゃん』、そして研修を担当していた先輩からは『ナベ』。
最後の呼び名。呼ばれたら三秒以内の返事を強いられていた新卒時代に、わたしは一度心を壊した。スイッチを入切するように切り替えられる同期が、本当に羨ましかった。飲み会になると決まって愚痴大会になったけど、みんな、まるでゲームの中で経験したことみたいに話す。それこそ、会社であったことなんて、自分の人生には関係がないことのように。わたしはその切替ができなかった。家から会社に通っているというよりは、会社から解放されて家に戻っている感覚だった。通勤に使っていたのは、あの快速電車。色が少し違うだけで、スピードは別物だった。
あの駅のベンチを訪れるのは、初めてじゃない。去年、研修が終わって実務が始まる直前。体調不良からの早退を繰り返していたわたしは、間違えてあの駅で降りた。その前に、乗る電車自体を間違えていた。快速の次にやってきた各駅停車に乗ったのだ。いつもなら、乗った電車が動き出して次に止まったら乗換駅だから、座席で目を閉じていたわたしは、車両が止まったことを察知して、何も考えずに下りた。電車が走り去ってから、ようやく気づいた。日は暮れかけていて、しわの寄ったリクルートスーツを着ているわたしを見た小学生たちが、困惑した様子で『こんにちは』と挨拶をしてくれたのを、今でも覚えている。
駅前とは思えない、田舎だった。コンビニかと思った建物は廃墟で、商売に関わる全てを諦めたように、看板が地面に落ちていた。廃墟の前で現在地を調べると、乗った駅から四駅も離れていた。わたしは『電車が止まったら、そこが降りる駅』というルールを三回も見逃していたことになる。なんとなく踏切を渡って、あのベンチに座ったとき、遮断機がぎこちなく閉まって、快速が通り抜けていった。自分が何も考えずに乗っていた電車の速さに驚くのと同時に、足がすくんで動けなくなった。また戻らないといけない。でも、大縄跳びを途中で抜けたときみたいに、どうやって足を踏み入れていいのか、分からなくなった。何時間座っていたのかは、覚えていない。空は雲が多くて、いつの間にか全体的に赤みがかっていたけど、夕日の姿は見えなかった。切れ端から少しだけ光が見えたとき、いつの間にか隣に座ったあのお爺さんが、言った。
『勝手に歩き回ったらあかんがな』
最初の言葉がそれだったから、わたしは思わず『すみません』と返した。お爺さんは、人は走り回るものだと諦めているらしく、それ以上は何も言わなかった。どちらもしばらく黙っていたけど、お爺さんが小銭入れから何枚か硬貨を出して、わたしに笑いかけた。
『買っておいで』
雲が切れて、眩しいぐらいの夕日がその手を照らした。古い小銭で、傷がついている物もあった。誰かと勘違いしている。孫かもしれない。すぐにそう気づいたけど、その硬貨を丁重に断ったわたしは、自然と足に力が戻ってきたことに、自分でも驚いていた。
『ありがとうございます』
そう言って、わたしは踏切を渡った。お爺さんは怪訝な顔をしていたけど、散歩コースのような道に戻っていった。それから数か月が経って、わたしは念願の転職を果たした。その報告というつもりではなかったけど、何らかのお礼を言おうと思って、会える確信もないまま、またあの駅に行った。前と違って今度は休日だったけど、ベンチに座っていると、隣にお爺さんが座った。わたしがお礼を言うよりも早く、お爺さんは言った。
『勝手に歩き回ってほんまに』