Transfix
「マサキさんとこは、両方が仕事しててね。家には弘原さんしかいないもんだから、子供の遊び相手になっていたみたいなんです」
藤木さんは、ついさっき覚えたばかりの教科書の中身を暗唱するみたいに、早口で言った。
「マサキさんとこには、未希ちゃんって名前の娘さんがいて。四十年前ぐらいの話ですよ」
「四歳だったわ」
光子さんが言った。藤木さんはバトンタッチするように、静かになった。
「あの駅前のやつは、開かずの踏切で有名でね。遮断機が下りても、みんなくぐって渡ってた。未希ちゃんも、同じようにしたんだと思う。夕日が眩しくて見えなかったのかもしれないわ」
わたしは、さっき買ったばかりのお菓子が入った袋を強く握りしめていた。
「まさか、電車に……?」
わたしが言うと、光子さんはうなずいた。
「弘原さんが止める間もなく、入って行ったんだって。私も小学生だったからあまり覚えてないけど、弘原さんは靴とか髪留めとか、警察にどれだけ止められても、全部拾うまで家に帰らなかったそうよ」
「それで、マサキさんの一家は引っ越しちゃったんだ」
藤木さんが言うのと同時に、光子が補足した。
「うちに来るところだったから、あの店で商売をするのはやめたんです」
「わたし……、謝らないと」
思わず言うと、藤木さんと光子さんは二人で首を横に振った。光子さんが言った。
「いいんじゃないですか。言葉通じないし、ちょっと変わってるでしょ。仕事もすぐに辞めちゃったりで、昔は大変な人だったらしいですよ。継いじゃってる手前、家は弘原さんのものですから。実態は逆でも、マサキさん達が居候の形になるんで、出て行けとは言えないし」
弘原さんの『病み期』。わたしとは違うだろうけど、靴下を裏返しに履いてしまっただけで家から一歩も出られなくなるような暗黒期を過ごした人間としては、完全に『おかしな人』と括りたくはない。これから弘原さんの『病みエピソード』が始まることを予期したわたしは、お礼を言って店を出た。
駅のベンチに座っていると、夕日が目を柔らかく刺した。日が暮れつつある。ここに来るときはいつも雲があったけど、今日は遮るものがない。そんな空に向かって突き立っている遮断機を見ながら、思った。今は開いているけど、昔は開かずの踏切だった。何も来ない間まで、ずっと閉めっぱなしにして、無責任なものだ。わたしはスマートフォンを取り出して、目の前を走る路線のことを調べた。十年前に踏切の構造自体が改善されて、今は待ち時間が大幅に短くなっている。踏切は生まれ変わったけれど、渡った先には廃墟が見える。あの店に向かって、未希ちゃんは走って行ったのだ。
夕方五時になって、弘原さんが隣に座った。いつもと同じように、夕日に目を細めながら。
「勝手に歩き回ったらあかんがな」
わたしは一度大きく深呼吸をすると、言った。
「弘原さん。酷いことを思い出させてしまって、ごめんなさい」
弘原さんはわたしの顔をじっと見て、上着のポケットから小銭入れを取り出した。中から硬貨を取り出すと、手の上でじゃらじゃらと振った。
「買っておいで」
やっぱり、通じていないんだ。俯きながら、わたしは答えた。
「大丈夫です。でも、ありがとうございます」
次は、『マサキは買ってくれないって、いつも言っているのに』。
「マサキはいつも買うてくれんて、ごねとるのに」
弘原さんはそう言うと、苦笑いを浮かべた。わたしは夕日から目を逸らせながら、自分が未希ちゃんじゃないことを伝えようと思ったけど、口がどうしても言うことを聞かなかった。息すら、気を抜いたら忘れて止まってしまうのではないかと思った。このままだと、次は『今日じゃない』と言って、お開きになってしまう。三嶋は、一旦会話が終わってからの方がいいとアドバイスをくれた。まだチャンスはある。でも……。弘原さんの言葉を頭の中で繰り返していて思った。何が『今日じゃない』んだろう。
わたしは、弘原さんの手の上でいびつに光を跳ね返す硬貨を見つめた。いつも、傷のついた硬貨が混ざっている。初めてじっくりと見つめて、気づいた。曲がっている。まるで、鉄の塊で踏み潰されたみたいに。弘原さんは、未希ちゃんの遺品を拾うまで家に帰らなかった。もしかして、その硬貨は四十年前に、未希ちゃんの手の中にあったものなのだろうか。だとしたらその先に、続きがある。
わたしは思わず、手を差し出した。弘原さんは笑顔で、わたしの手の上に硬貨を置いた。
「早く行かな、なくなってまうぞ」
初めて聞く、その先の言葉。わたしは、ベンチから立ち上がった。硬貨を持ったまま歩き始めると、未希ちゃんが命を落としたのと同じ、線路内の真ん中で足を止めた。同時に、踏切がサイレンを鳴らし始めた。遮断機が軋みながら下り始めたけど、まだ電車は来ない。ギリギリまで待って、確かめたいことがある。今、あなたの目には、四十年前の踏切が見えているはずだ。線路の中には、夕日に目を細めながら電車に気づかない、未希ちゃんがいる。でも……。
開かずの踏切をくぐるように急かしたのは、あなただ。
遮断機が降り切る寸前、わたしは振り返った。弘原さんは手を振っていた。今までに見たことがない、澄んだ笑顔で。
踏切を渡り切ったわたしは、硬貨を駅の募金箱に入れた。何も証明できない。でも、未希ちゃんが亡くなるまで、弘原さんがずっと心の中に留めていたに違いない本音は、お金を受け取らなかったわたしだけが、知っている。
『今日じゃない』
そう。だから死ぬのは、また次の機会に。