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群青の夏

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 風呂場から出た誠は、部屋に戻って塾へ行く支度をした。それでもまだ少し時間が余っていたので、グラブの手入れをすることした。ローションを滲み込ませた布で満遍なく汚れを落とし、薄くオイルを塗って、よく馴染ませた後でボールを挟み、伸縮性のある専用のベルトで固定する。いつもより、少しだけオイルの匂いが強めな、手入れ直後のグラブの匂いが、誠は好きだった。

 野球部に入って間もない頃、青木にグラブの型を褒められたことがあった。青木は「道具を大切にする選手は、必ず上手くなるからな。井岡もきっと、いい選手になるぞ」と言ってくれた。
 嬉しかった。自分の野球に対する熱意を認めてくれる大人が、身近にいてくれているということが、たまらなく嬉しかった。

 高校で野球をすることになっても、高校野球は硬式野球だから、軟式用のこのグラブを使うことは無い。野球を続けるにしても、辞めるにしても、このグラブで野球をするのは、中学卒業までの間だけだ。野球に対する情熱と父に対する従順さを共に象徴する黒ずんだ黄色いグラブは、役目を終えた後、誠にとって何を思い出させる物になっているだろう。

 誠は携帯電話のディスプレイを見た。待ち受け画面には、野球部の仲間達と並んで移った写真が映し出されている。その下に表示されているデジタル時計は、十八時二十八分を示している。
 塾用のショルダーバッグを肩にかけ、部屋を出る。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん。行ってきます」
<章=意志の強さ>
 誠が通う塾は、駅前のビルの五階にあった。自転車を駐輪場に停め、エレベーターで五階まで行き、教室の扉を開くと、すでに何人かが席についていた。誠が自分の席に座ると、少し遅れて阿部亮平が教室に入ってきた。亮平は、豊見中学の野球部に在籍しており、翔太と同じ小学校、少年野球チームの出身だ。上背はあまりないが、がっしりとした体型で、強肩強打の三塁手として、チームの主軸を担っている。

「よぅ、井岡。こないだ翔太から聞いたんだけどさ、お前東商からスカウトされたってマジ?」
「ん、まぁ、一応……」
「おお、凄ぇじゃん。今あそこって、一年の市川って人が凄ぇんだろ。来年は久々に甲子園行けそうって言われてるし、お前ももしかしたら……」
「そんな簡単にいくわけないだろ。大体まだ行くって、決めたわけじゃないんだから、そんなに騒ぐなよ」
 一人で勝手に盛り上がる亮平を制するように、誠は言った。

「えっ、何で?せっかく誘われてんのに、勿体ねぇじゃん」
 先刻の翔太とのやり取りを思い出し、誠は思わずため息をつく。
「そんなに簡単に決めれる事じゃないだろ。自分の将来にも関わる事なんだから、野球やりたいからってだけで、あっさり決められるかよ」
「じゃあ、東商に行かないとしたら、どこ行くの?」
「今んとこ、……第一志望は、鶴川学園」
「えっ?あそこ野球部ないじゃん。野球もうやんないの?」

 鶴川学園は私立の進学校だが、亮平の言うように野球部は無い。義秀の意思で選ばされたわけではないが、そういう学校の名前を挙げれば小言を言われることも無いだろうと思ったのだ。

「もったいねぇなぁ、俺なら迷わず東商行くぜ」
「うるさいなぁ。俺の事より、阿部はどうなんだよ。志望校決まってんの?」
「俺?俺は今さら悪あがきなんてしねぇよ。ただ、この年で就職はまだしたくねぇからな。とりあえず、入れりゃどこだっていいよ」
「お前さぁ、何のために塾にまで来てんだよ」

亮平は、何故塾にまで通ってるのか不思議になるほど不真面目だった。授業中にくだらない事を言って、皆を笑わせたりするのが得意で、誰からも好かれる性格だが、成績はかなり悪い。

「別にィ。部活終わって家帰ったって、俺も一人っ子だし、やる事ないじゃん。だったら、誰かと会える場所にいたほうが楽しいじゃん?」
「ったく、そんなんで将来大丈夫かよ? 人の進路より自分の進路心配しろよ」

 溜め息混じりに言いながら、誠は自分が義秀に言われている事と似たような事を、亮平に言っている事に気づいた。その気持ちを紛らわすように、亮平の顔から視線を外し、教室の中を見回した。他の生徒達も、席についてそれぞれに雑談をしている。それとなく聞き耳を立ててみると、自分達のように、進路について話をしている者もいれば、雑談をしている者もいる。

 みんなは、自分の進路をどうなふうに決めているんだろう。親や教師、塾の講師ら、大人達が勧めるままの進路を選ぶのは何人くらいだろう。それを当たり前のように受け入れるのは、何人くらいだろう。自分のように大人たちの意見に抗い、別の道へ進もうとがいているのは何人くらいだろう。そうして決めた結果について、将来後悔する者と、しない者は、それぞれ何人くらいになるのだろう。そして結果に後悔した者達は、その後自分と、どのように向き合ってゆくのだろう。

 そんな事を考えていると、教室の扉が開いて社会科の担当講師、早川尚樹が入ってきた。生徒達はおしゃべりを止め、それぞれ自分の席に着く。早川は、教室の中を見渡して、欠席者がいないのを確認すると、満足そうに頷きながら言った。
「よし、全員来てるな。それじゃ、はじめるぞ」 
作品名:群青の夏 作家名:伊藤直人