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群青の夏

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親の言いなり


 憂鬱な気持ちのまま帰宅した誠を、母の美奈子が出迎えた。
「お帰り、誠。あら、ユニフォーム泥だらけじゃない。塾までまだ少し時間あるし、すぐお風呂入っちゃったら?」
「うん」
 そう言って、誠はすぐに風呂場へ向かった。汚れたユニフォームを洗濯籠に放り込み、風呂場に入る。鏡を覗き込むと、顔にも少し泥が付いていた。熱いシャワーで、汗と泥を洗い落とすと、疲れた身体にシャワーの熱さが染み渡った。できれば浴槽にも浸かりたいが、七時には塾に行かなければならないため、あまりゆっくりはしていられない。

「はぁ……」
 思わず、ため息が漏れた。部活の後で疲れていたこともあるが、それだけではない。東商への進学を父に断られてから、誠は毎日、どうすれば父を説得できるだろうかと、そればかり考えていた。しかし、あの融通の利かない父が、自分の主張を曲げる事などあるだろうか。

 誠が野球を始めたのは、小学三年生の時だった。きっかけは、その年クラスメイトになった佑介に誘われたからだ。
 もともと運動神経は良い方で、足も速かった事に加え、真面目で練習熱心だった誠は、めきめきと上達し、五年生でショートのレギュラーポジションを獲得した。

 誠にとって、野球は何よりの楽しみとだった。平日の午後は、水曜日以外は塾に通わされていた誠は、その水曜の放課後も、大概野球をして遊んでいた。相手が見つからなければ、一人で校舎の壁に向かって、日が暮れるまでボールを投げつけていた。

 中学に上がっても、誠は一年生からサードのレギュラーに抜擢され、三年生の引退後は、ショートを任されるようになった。少年野球とは違い、平日は毎日、場合によっては休日にも練習に駆り出されるする日々は、決して楽ではなかったが、辞めたいと思ったことは一度もなかった。

 義秀は、勉強に関しては職業柄からか特に厳しく、テストなどは満点でない限りは褒められる事はまず無かった。
 その甲斐あってか、誠の成績は小学校時代から常に上位だったし、クラスメイトや教師たちからも「井岡君は、頭がいい」と言われた事は少なくなかった。そう言われること自体は素直に嬉しかったし、そしてそれが父の厳しさのおかげだと言う自覚もあった。だが、どんなに良い成績を収めても、勉強が楽しいと思ったことは、一度もなかった。

 父に言われるままに、勉強に打ち込む自分に疑問を感じるようになったのは、少年野球のチームメイトの言葉がきっかけだった。
 六年生だったある日、野球の練習中に、グラブが破けてしまった事があった。紐も何箇所か痛んでいて、今にもちぎれそうだった。もともと、ホームセンターで買ってきた、安物のグラブだったということもあったのだろう。家に帰った誠は、義秀に新しいグラブをねだった。義秀は素っ気無く「それじゃあ、明日の帰りにでもまたホームセンターに寄って、買ってきてやろう」と言った。

 だが、誠が欲しかったのは、ホームセンターで売っているような安物ではなく。プロ野球選手が使っているような、野球用品専門メーカーのグラブだった。
「そういうのじゃなくて、スポーツ用品店で売ってるやつが欲しいんだ」
「いくら位するんだ?」
「一万円、くらいかな……。もうちょっと、安いのもあるかもしれないけど」
「そんなにするのか? しかし、さすがにこいつをこれ以上使うのは無理だしな……。よし、買ってやる」
 義秀は、使い古してぼろぼろになったグラブを、手にとって眺めながら、そう言った。
「本当? ありがとう!」
「但し」
 はしゃぐ誠を制するような口調で、義秀は付け加えた。
「今度の塾のテストで、いい点が取れれば、の話だ。それが出来なかったら、ホームセンターの物で、我慢しなさい」
「うん、わかった」

 一瞬気落ちはしたが、誠は俄然やる気になった。そして入念に予習をし、義秀が納得するだけの点数を取った。
「よく頑張ったな、誠。それじゃあ約束通り、グローブを買いに行こう」
 返却されたテストの答案を見ながら、義秀は満足そうな笑みを浮かべ、誠の頭を撫でた。
 そして誠は、憧れの野球用品専門メーカーのグラブを買って貰った。それまで使っていた、安物のグラブにはない本革の香りに胸を躍らせた事を、今も鮮明に覚えている。
作品名:群青の夏 作家名:伊藤直人