短編集68(過去作品)
それはまるで綺麗な青い色に着色された感じであった。まるで絵具をぶちまけて、その上を何とか繕って、かろうじて見えるようにしている。絵画の技法をフルに生かさないとできないことだが、いくらうまい技法を使っても絵具をぶちまけたのだから、時間が経てば経つほど色はまだらにしかならない。
私はそのままの色であったとしても不可解に思っただろう。空が本物ではないということに、いずれは気付いたはずだ。なぜなら、私は最初から空が気になっていたからだ。
もちろん、すすきの穂が気になっているのは当たり前のことだが、それ以外には空しかないのだから、空が気になってしまうのは当たり前である。私は気になった空をじっくりと見ることが、すすきを穂の世界を感じることができると思っている。
夢から覚めると朝だと思っていたが、それは勘違いで、夕方だった。
私の部屋に西日が差し込んでくる。黄色掛かったいつもの西日だった。私は目を瞑り、再度目を開けてみた。やはり西日に違いなかった。
――何を確かめたかったんだろう?
一度目を瞑って、もう一度目を開ける。西日が差し込んでこなくなるとでも思ったのか。朝であってほしいと思ったのだろうか。
朝だったらどうだっていうのだろう? 実季のことをイメージしているので、朝日ではないといけないと思ったようだ。確かに実季のイメージは朝日であり、決して夕日ではないのだ。
だが、夢を見るのに、そこまでこだわる必要があるというのか、私は自問自答をしてみた。もちろん、答えが返ってくるはずもない、今考えている自分が分からないのに、再度自分に問うたとして、何が分かるというのだろう。
考えてみれば自問自答などという言葉もおかしなものだ。考えている自分とは別に、奥にいる自分に聞いているのだ。問われた方も困ってしまう。
「一番最前線にいるお前に分からないのに、奥に籠っている俺に分かるはずないじゃないか」
と言いたいのだろうが、その言葉が問うた方に伝わっていないのだ。
伝わるわけもない。自問自答といっても、本当に奥にいる自分の存在を信じているのかどうか、疑わしいからだ。
――返事が返ってくるはずなどないんだ――
と思っている。
奥にいる自分の存在が信じられないと、夢自体もどこまで自分の潜在意識が働いているのかも疑わしい。
「夢というのは、ほとんどが自分の潜在意識が見せるものだ」
という人の意見があったが、それには私も賛成だった。意識のないことをいくら夢とはいえみることはできないだろう。いや、夢だからそこ制限がある。夢に果てがなければ、夢の世界と現実の世界の境界がなくなって、収拾がつかなくなってしまう可能性があるように思えるからだ。
夢の世界はやはり自分の潜在意識が支配している。夢を暴走させるわけにはいかない。その意識があるから、私は夢を必要以上に意識してはいけないと思うようになっていたのだ。
妹が夢の中で踊っているように見えた。こちらを向いている実季は踊ってはいない。妹は鏡だと思って見ていたが、向こうの様子が少し違うのに気が付いて、少しおかしな行動をしてみたのだろう。もちろん、妹には鏡面に映ったその顔が、自分であると信じて疑わない。ただ、行動だけが不可思議に感じられたのだ。
妹の行動に対し、実季は何も感じていないようだ。映っているのは自分であり、自分と同じ行動が向こう側に映っていると思っている。
いや、よく見ると、実季の表情はまったく変わっていない。いくら無表情でも、ここまで表情が変わらず、しかもまったく動きを示していない。まるで銅像のようではないか。
ある瞬間に撮られた写真が、鏡面に貼り付いてしまったかのようだ。
時間を切り取って貼り付けるような感覚は普通の人間には考えもつかないこと。そんな研究をしている研究所くらいはあるかも知れないが、まだまだそんなことは果てなき未来のお話に思えてならない。それは時間を操作するのと同じ感覚ではないからだろうか。
時間を支配するということは、神の領域に足を踏み入れることになるのではないかと私は思っている。時間を操るタイムマシンの創造は、もうかなり昔からあるのに、一向に開発されない。これだけ半世紀の間に進歩した科学ならば、できないこともないのでないか。そう思うと、やはり何か分からない力によって制御されていると思っても無理のないことである。
実季は、そのままどこかに行ってしまったのかも知れない。こちらが鏡の中の世界で、向こうが実世界だと思っていたが、本当は逆なのではないかとも思えてきた、頭が混乱してきたが、結論など出るものではない。出るはずのない結論を求めて一生懸命に考えるのは悪いことではないのだろうが、ハッキリ言って愚の骨頂に思える。まるで風車に突進するドン・キホーテのようではないか。
だが、バカにされた行動が、実際には正しかったと言われることが昔からの話しには多い。多いと言ってもどれだけのうちの多さなのかによって変わってくる。本当に稀なケースなのかも知れないが、私にはその稀なケースを今自分が確かめようとしているように思えていたのだ。
私は三人の女性の中で、誰かを影だと思いたくない。誰もが私と同じ世界に存在していて、私のまわりの世界を作っていくのだ。誰かが表に出ている時はこの世界での影になっている。鏡の向こうの世界が影だとすると、私は影の世界の住人なのだろうか。気付かない間に鏡の中の世界と行き来しているのだと思うと辻褄が合う気がする。
ただ、鏡の中の世界と別の絵や写真の世界。それぞれを行き来することができる人がいてもおかしくはない。
私が時々感じる閃光、あれは写真や絵の世界を行き来するためのものだったのかも知れない。
私はすすきの穂の絵を見た時にそのことに気付いた。そして鏡の世界を思い浮かべた時、妹と実季の二人の間だけに存在する世界を知ってしまった。私は鏡の中にいる時は、こちらの意識を持ってはいけないはずなのにどうして持ってしまったのだろう? 何かよからぬことが起こる前兆ではないだろうか?
ひょっとしてすでに起こっているのかも知れない。私が気付いてだけではどうにもならず、気付いてしまったことを後悔するくらいだ。知らぬが仏というではないか。
だが、今は平穏なこの世界、私が知っている世界とは少し違っているようだ。鏡の世界に入り込んでしまったとすれば、戻ることはできるのだろうか? そういえば、考えている間、何も起こらない。この世界では考えることができるだけで何も起こすことはできないし、起こらないのだ。
すすきの穂の一本一本には影があり、そして光がある。頭に浮かぶのは、写真で見た世界だけだ。こうなることを私は予知していたのかも知れない。ゆっくりとすすきの穂をかき分けながら歩いていくと、そのうちに開けたところに出た。
「いよいよ知らない世界への入り口だ」
と思った瞬間。また鏡が目の前に現れた。
虚脱感は激しいもので、すでにここから抜けられないことを悟ってしまった。遠くに見える小高い丘から洩れてくる日差し。朝日なのか夕日なのか。そんなことは、もうどうでもいいと思うようになっていった……。
作品名:短編集68(過去作品) 作家名:森本晃次