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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Joint

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― 現在 ―
  
「一応、休業ではなくて自宅待機やから。給料は満額出るよ」
 圭一は、助手席のヘッドレストに浅く頭を預けながら、言った。義彦は口角を上げて微笑むと、言った。
「その代わり、電話は取らなあかんのか?」
「取らなあかんよ。心は出社の精神やで」
 圭一は、窮屈そうなマスクの位置をずらせると、眼鏡が曇らないように、浅く息をした。義彦は車の中だからと思ってマスクはしていなかったが、由美から預けられたグレーのマスクを巻いた。その様子を見た圭一は、眼鏡を真っ白に曇らせて笑った。
「グレーは人相悪いなあ」
「これしかないんや」
 義彦はバックミラーで自分の顔を見て、圭一の評価が当たっていることに少しだけ笑った。実家まで電車で行くと言っていたが、結局迎えに行くことにした。人通りを見ていると、正解だったと思う。
「平日はあんま変わらんな。横山さんとはどないや。会えてんのか」
 圭一が二年交際している彼女は、最初に見せてもらった写真では『軽い』印象だったが、圭一の影響か、写真が送られてくるたびに、真面目な印象に変わってきている。圭一は、首を横に振った。
「いや、やっぱ自由は利かへん。去年の内に、一緒に住んどくんやったわ」
「明日香のとこも、忠司くんは出張先で缶詰らしいわ。下手に出られんらしい」
「じゃあ、明日香と智博くんが帰ってきてるん?」
「そうやな」
 義彦が言うと、圭一は視線を窓の外に移した。しばらく沈黙が流れた後、言った。
「丈治さんを撥ねた相手は、逃げとるんやんな」
「警察は、全力挙げて捜査するゆうとったけどな」
 義彦は、バイパスに合流する側道で、本線にいる年式の古いトラックを目に留めた。五代目のキャンター。当然、別のトラックだ。荷台に『コバルト物流』などと書いてあるはずがないし、バンパーの両端が吊りあがっているというようなこともない。それでも、警察官同士の何気ない会話が、義彦の頭の片隅に残っていた。『よくある右直事故とは少し違う。角度が浅くて、ほとんど正面衝突に近い』。その後は、義彦の頭の中で補われた。それこそ、対向車線を走るトラックが、まるで意図的に進路を塞いだような。単純に物事を考えるなら、居眠り運転。しかし、防犯カメラが設置されていない交差点で、丈治が毎日のように通る道だった。
 義彦はバイパスに合流すると、アクセルを踏み込んだ。自分が歩んできた人生は、大きく三つに分かれている。一つ目は、由美と出会うまでの人生。『鼻たれ小僧期』と呼んで、家族の間でも笑い話になることがある。二つ目は、由美と出会ってから九十五年の大地震があった年まで。そして今、三つ目の中にいる。
『二つ目の人生』に取り残してきたはずの人間。何かあったら、連絡して。九十五年の秋にそう言って、名刺を渡していった女。田川晴子。法律事務と書かれた名刺は今でも持っているし、丈治の遺品の中にも同じものがあった。二十五年越しに、有田家が置かれている状況。
 これは、田川の考える『何かあった』に相当するのだろうか。
    
『先生』と呼ばれるようになって、二十年が経つ。ずっと違和感があった、『キャリアウーマン』というカテゴリーが自分の居場所であると納得できたのは、法律事務所を立ち上げて初めての案件を捌ききったときで、ちょうどその頃から、先生と呼ばれ始めた。二〇〇三年から二〇〇八年までの五年間は、ほとんど黒に近い、グレーな『実業家』の顧問弁護士を務めた。そういう意味では、歩いている道は昔からさほど変わっていない。
 田川晴子は、ほとんど自分の人生を振り返ることなく、流れの速い方を見つけてはそこへ合流するということを繰り返して、今まで生きてきたという自覚があった。その反動か、昔の記憶を掘り起こすのは相当な労力を要し、まだ五十歳だが、百年近く生きてきたような錯覚に陥ることが多かった。スマートフォンに入った数年前の写真を見返しても、顧客や店の名前はすらすらと出てくるが、自分自身の記憶だけは霧がかかったようになっている。それでも、その霧の中をずっと辿っていくと、必ず着くことができる、鮮明な記憶。
 二十五年前。司法試験の勉強にどっぷり漬かっていた。あまりのストレスで、胃の中は無意識に口に入れた自分の髪の毛でがんじがらめになっていたが、それでも勉強だけはやめなかった。そんな中、受験仲間とふらりと寄った飲み屋で出会った猫背の大男が、人生を変えた。いや、スピードアップさせたという方が正しいかもしれない。吉巻は、少し動くと必ずどこかにしわが寄る、大きなぬいぐるみのような男だった。田川は、気づくと仲間そっちのけで、吉巻と話し込んでいた。あの、ごみ箱のような三〇三号室。通称『梱包工場』。西日が当たる部屋で、カーテンを開けていると、テレビは逆光でいつもよく見えなかった。吉巻が白い粉を丁寧に分けていくのを、隣で体育座りで見ていた。
「今日中に、起こしといてね。お疲れさま」
 ハンドルを握る事務の飯野にボイスレコーダーを託した田川は、車から降りてタワーマンションのエントランスをくぐった。エレベーターに乗り込んで初めて、大きく深呼吸をした。帰り道、手の震えを飯野に悟られなかったか、それだけが気にかかっていた。ありふれた交通事故。バイクと車の正面衝突。死亡した男の名前は、有田丈治。
 昨年末に式野が仮釈放となったというのは、もちろん耳に入っていた。過失致死で四年の判決を受けて、前科もないから初犯が集まる刑務所へ入った。大人しくしていれば出るまで四年かからなかったはずが、同房の囚人を殺したことで、話は振出しに戻った。
 部屋に入った田川は、長い時間をかけて手を洗いながら、時折顔を上げて、自分の顔がどんな風に歪んでいるのか、確認した。他人が見ても気づかないような、かすかな揺らぎ。若い頃に心掛けていた、あの隙のない笑顔を、今でも作れるだろうか。田川は鏡に向かって、かつての吉巻の口調を真似ながら呟いた。
「アリさんを呼べ」
 吉巻がその話を蒸し返す度に顔をしかめていた有田丈治には、クリーニング屋を経営する兄がいる。見た目は地味だが、あの弟と同じ母親から生まれてきたとは思えないぐらいに、真面目な印象だ。お店の隣では駐車場も経営していて、不自由ない暮らしを送っていた。少なくとも二十五年前は。田川はずっと番号を変えずに維持してきた、もう一つの携帯電話を見つめた。数秒に一回点滅する、青色のLEDランプ。そんな風に光るということすら、今まで忘れていた。それは、二十五年前の自分を知っている誰かが、電話をかけてきたということを意味する。当時使っていた固定電話から転送されて、この携帯電話につながるように設定していた。田川は着信履歴を確認した。発信者の番号は、非通知。
 しかし、この電話番号が書かれた名刺を持つ人間は、有田義彦と式野雷蔵しかいない。
   
   
― 二十五年前 夏 ―
   
「隣も、西井さんが借りてはるんですわ。外車でしょう。ドアが長くて、隣に車がおったら開けられへんらしいです」
 義彦が言うと、店の前に横づけしたキャンターの様子をちらちらと伺いながら、式野は困り切った顔で、眉をハの字に曲げた。
作品名:Joint 作家名:オオサカタロウ