Joint
舞野が家の下に来てから、三日が過ぎた。夏休みは中盤にさしかかっていたが、篠山はあまり外に出ず、『勉強する』という短い一言を盾に、自室に籠っていた。外出と言えば、アヤコが何度か誘ってくれたのをきっかけに、百貨店に行ったぐらいだった。
空き地で起きたことを思い出さない日は、まだ訪れることはなかったが、それで体に何かの変化が起きたということには、気づいていなかった。それが分かったのは、事件後、初めてピアノの前に座ったときだった。譜面が記号の羅列に見えて、いつもなら手が自分の意志を持っているように、鍵盤の上を滑るはずだったが、指先には何も伝わらず、何一つ動こうとしなかった。
二週間もピアノを弾かずにいる姿を見て、両親はどう思っているだろうか。仕事から帰ってくれば、いつも通りの表情で『おかえり』と言う娘が、実は一歩も外に出ていないなんて知ったら、本気で心配されるかもしれない。
篠山は一階に下りて、人の家のように感じる居間のソファに、腰を下ろした。もうすぐ夏休みだと言っていた頃、ここで全員揃ってテレビを見たのを覚えている。しかし、その歌手の名前は忘れてしまった。篠山は、開いたままになっている昨日の新聞を手繰り寄せた。ぼんやりと紙面を眺め始めた時、地域面の小さな文字の羅列の中から、意味を成した単語が頭の中に飛び込んできた。
『所田克也』
篠山は食い入るように、その前後の文章を読んだ。何度読んでも、頭に入ってきたのは、事故死ということと、自転車の運転を誤ったという二つだけだった。
小学校のとき、茶髪に近い髪色をよく揶揄われた。状況が変わったのは、所田が同じような色合いの茶髪に染めて、登校してきたときだった。どれだけ先生に怒られて、殴られてもやめなかった。所田は注目の的になり、最初は笑っていた同級生が、徐々に静かになっていった頃に、黒い髪に戻った。それ以降は、篠山も髪のことで揶揄われなくなった。
篠山は立ち上がると、学校のジャージに慌てて着替え、玄関のカゴに入った自転車の鍵を掴みながら、突然家に訪れた舞野のことを思い出していた。これを言いに来たんだ。舞野の自宅の番号を鳴らすと、永遠に続くような発信音の後に、本人が出た。
「はい」
「まいやん、篠山です」
「えっ? なに?」
舞野の驚いたような声は、寝起きのように籠っていた。篠山は言った。
「なあ、今から会ってよ」
「今から? ちょっと待って、なんかあった?」
「なんもないけど」
篠山は、これ以上記事が目に入らないよう、新聞を閉じた。しばらく沈黙が流れた後、舞野が言った。
「どこがいい?」
「分からんけど、あんま聞いてる人がおらんとこ」
「ゲーセンの一本裏とか? 鍵屋さんがあるとこ。そこやったら、十五分ぐらいで行けるけど」
「そこでいい」
篠山は電話を切ると、スニーカーを履いて家を飛び出した。
舞野は、自転車で現れた篠山を見て、思わず居住まいを正した。学校のジャージに、派手な色のTシャツを着ていて、寝起きでそのまま家を飛び出したみたいだった。それでも、自分よりは芯があって、自分の足でしっかりと立っているような印象があった。
「まいやん、トコロテンが死んだ。新聞で……」
篠山はそこまで言うと、顔を伏せて泣き出した。舞野は自転車のスタンドを起こすと、その場に座り込んだ篠山の隣に腰かけて、横顔を見ながら思った。この上、柳沢が自殺したなんて知ったら、どうなるのだろうか。
「事故って書いてた。なんで?」
篠山は、答えが出ないことは自分でも分かり切っているように、呟いた。舞野は言った。
「土手の、ガードレールがないとこを走ってたんや」
「それでこけて死ぬとか、あるんかな」
篠山の言葉に、舞野はうなずいた。
「兄貴が、俺のことを怖がってる。顔つきが変わったって。篠山、ピアノが上手く弾けんようになったて、言うてたやん。所田も絶対、影響受けてた」
篠山は、伏せていた顔を少しだけ上げると、その説にすがりつくように顔をしかめた。舞野は、人気のないバイパス下の公園を指差した。
「あっちに行かん?」
「うん」
自転車を押して歩きながら、舞野は言った。
「こないだ、申し訳ないって言ってたやん。俺、あの死んでもた子に謝るん、忘れてたわ」
隣を歩く篠山は、笑顔の形を思い出そうとするように無理やり口角を上げると、言った。
「話した内容、覚えてたんや」
「覚えてるよ」
舞野はそう言ったとき、がらんとした道路の先に、白いセダンが停まっていることに気づいた。フェンスから鼻先だけが見えていて、陽炎に揺られている。後ろからディーゼルエンジンの轟音が聞こえてきて、舞野は足を止めた。篠山は一列になるように歩道に下がり、舞野の後ろに自転車を寄せた。行き過ぎたトラックが停車し、その車体に書いてあるロゴを見た舞野は、団地で見かけたのと同じ車だと気づいた。
「篠山、逃げな!」
そう言った時、トラックのバックランプが光り、テンポの外れたバックホーンが間抜けな音を鳴らした。真っ黒な排気ガスが猛然と吐き出されるのと同時に、後退してきたトラックに舞野が巻き込まれ、自転車が車体にこすれて悲鳴のような音を鳴らした。篠山は飛び退くのが間に合わずに転倒し、再び前進したトラックが急停車したことを、音で悟った。そのテイルゲートが開けられるのと同時に、白のアリストが背後を塞ぐように停まった。助手席から降りた糸井は、片足が折れた舞野の体を軽々と担ぎあげると、荷台に投げるように放り込んだ。折れ曲がった自転車の方が、扱いが丁寧なぐらいで、篠山が立ち上がろうとしたとき、後ろからその髪を掴んだ吉巻が言った。
「ほんまに両方なんやな!?」
糸井は一瞬だけ手を止めたが、うなずいた。それが合図になったように、吉巻が頭を掴む力が万力のように強まり、篠山は悲鳴を上げる間もなく、荷台の中へ押し込まれた。糸井は自転車を担ぐと、舞野と篠山の間に投げ込み、ハンドルが篠山の背中にぶつかった。
式野が荷台に乗り込んで、糸井が外からドアを閉め、運転席に乗り込んだ。トラックのテイルゲートが開いてからちょうど三十秒が経ったとき、吉巻の運転するアリストが走り去るのと同時に、日産アトラスが轟音を上げながら急加速して、現場には、自転車の割れたヘッドライトの破片だけが残った。
荷台の中で式野は、舞野と篠山と対面しながら思った。今考えれば、柳沢が一番簡単だった。所田は、キャンターを使って追いかけたから、土手の手前でハンドルを間違った方へ切りそうになって、こっちが大事故を起こすところだった。言葉にならないうめき声をあげている舞野と、震えて声も出せないでいる篠山を、懐中電灯で代わる代わる照らすと、揺れる荷台の中でため息をついた。
『アリさんから指示来たわ。用心に越したことはないって』
糸井と式野をわざわざ呼び出した田川の口調は暗かったが、聞いた以上は取り消すこともかなわない。準備に取り掛かってしまえば、後は早かった。仲間内で人を殺した経験があるのは糸井だけだったが、決心がつくまでに一番嫌がったのも糸井だった。
「ごめんなあ」