Joint
三
― 現在 ―
「あんらー、大きくなって」
明日香がふざけて言い、圭一は呆れたように笑った。
「横にってことかい。一年空いただけでそんな変わる? お、智博くん久しぶりやね」
居間でみかんを食べていた智博が振り返ると、歯を見せて笑った。
「おかえりー」
圭一はその言葉に胸を打たれたように表情を緩めると、明日香に言った。
「オヤジから聞いたんやけど。忠司さん、出張先で出られへんの?」
「そうやねん。この仕打ちはあんまりやわー」
明日香は、冷蔵庫を開けて中を探っている義彦に言った。
「お父さん、街はどやった?」
「駅の周りは、結構おるぞ」
義彦は短く言うと、腕時計に視線を落とした。上着をハンガーにかけて、落ち着いたように座布団へ腰を下ろした圭一に言った。
「いつまでおれそうや?」
「一週間ぐらいかな。とりあえずノートがあったら、仕事はできるから」
ノートパソコンを鞄から出した圭一が言うと、智博が興味深々な様子で隣に座り、画面を覗き込んだ。
「ごめん、ゲームとかは入ってないで。仕事、手伝ってくれる?」
智博は笑いながら首を横に振ったが、それでも隣に座って、画面を眺めていた。由美が言った。
「晩ごはん、どうしよ。毎日正月みたいで、こういうのもええね」
「出前取るか?」
義彦はそう言うと、一階に下りた。駐車場で煙草を吸っていると、二本目の途中ぐらいで、圭一が降りてきて、隣に立った。義彦は自分の周りの煙を追い払って、火を消した。
「おれるだけ、ここにおれよ」
「迷惑やないかな?」
圭一の言葉に、義彦は首を横に振った。
「んなわけあるか。何を言うてんねん」
圭一は、その言葉が出ることを確認したかったように、表情を和らげた。二十五年前に、空き地で起きたこと。色んな話を聞いてくれた舞野のことを、今でも覚えている。実際には、あの日に起きたことは、一つも忘れていない。無我夢中で家までの道を走り、泥もできるだけ払ったが、家に帰ってきて真っ先に、レジの後ろにいた義彦が気づいた。
『西井くんとケンカした』
咄嗟に浮かんだ嘘は、とりあえず受け入れられた。泥だらけになった制服から着替えたとき、制服の半ズボンに靴の跡のようなものが残っていることに気づいた義彦が、言った。
『えらい大ゲンカやな。勝ったか?』
圭一はその質問に対する答えを全く用意しておらず、首を傾げたり俯いたりを繰り返していた。義彦がとりあえず着替えるように言い、圭一が言われた通りにした直後に、明日香が帰ってきた。
『西井くんとケンカしたらしい』
義彦の言葉に、明日香は寂しそうな表情で俯くと、言った。
『仲良かったように、見えたんやけど』
普通なふりをして帰ってきたが、圭一の着ていた服はめちゃくちゃだった。制服のシャツにクリップ留めされた名札は千切れて無くなり、ランドセルも留め金のところがへこんで、泥が詰まっていた。その日の夜、義彦はもう一度、何があったかを聞いた。今度は由美も明日香も眠っていて、夜中だった。圭一は、和樹が目の前で死んだということと、そこにいた中学生が話していたこと。中身が『麻薬』だったということ、そして、中学生の一人に口止めされて逃がしてもらったことまで、全てを話した。
圭一は、二十五年間、駐車場の奥に停まったままになっているキングコブラの鼻先を眺めた。義彦もその視線を追いながら、思い出していた。費用の問題もあったが、撤去の話がまとまりかけたとき、当時高校生だった圭一が表情を曇らせながら言った言葉に、義彦は考え直した。
『忘れたくない』
圭一は、自分がどうしてそう言ったのか、その理由を今でもはっきり理解していた。それは、他の人間が皆、忘れてしまったからだ。病欠した土曜日が過ぎて、次の週になっても、西井和樹が死んだという事実がなかったかのように、学校生活は進んだ。全校生徒が集められることもなければ、新聞記事になることもなかった。同時に父親も、姿を見かけなくなった。
そうやって、西井親子は行方不明になったのだ。
圭一が中に戻ってからも、義彦はしばらく外にいた。もう一本に火をつけるか迷った後、小さく息をついて、携帯電話を取り出した。田川晴子と書かれた名刺に、手書きで付け加えられた電話番号。何度か鳴らした後で転送に切り替わったが、履歴だけを残して、義彦は電話を切った。三本目の煙草を箱から取り出した時、手の中で携帯電話が震えた。
「もしもし」
田川は、電話の向こう側にいる人物が名乗るまでは、何時間でも待つつもりだった。しかし相手は、あっさりと名乗った。
「有田義彦です。弟が事故に遭いました」
「ご愁傷さまです」
田川は簡潔に言うと、執務室のドアを閉めて、ブラインドも光が入らないように閉じた。プライバシーが確保されるわけではないが、外からの光すら遮断したかった。
「以前、ゆうても何十年も前ですけど。今後身内に不審死があったら、連絡欲しいって言うてはりましたよね」
義彦は、台本に書かれた文章を言い切ったように、ひと息ついた。田川は言った。
「轢き逃げ犯に、心当たりはありますか?」
「去年の暮れに、式野が出所したというのを聞いてます」
田川はメモ用紙を手繰り寄せると、義彦の話す内容を書き留めた。式野が出所したことだけでなく、トラックが真正面からぶつかっていることや、丈治が勤めていた工場に続く直線道路で、監視カメラのない交差点で起きたということも。
「警察は、破片からすると、古い型のトラックかもしれんと」
田川はそれも書き留めて、パソコンでスケジュールを開いた。
「有田さん。わたしに電話くれたゆうことは、心配事があるんですよね。何を一番、心配されてますか?」
「この電話で言うてしまって、いいんですかね?」
「できたら、相談という形でも、一度来てもらった方がいいですね」
田川が言うと、義彦が空いている日を何日か伝えて、顔を合わせる日は週末の朝に決まった。スケジュールではなく、メモの端に日付を書いた田川は、言った。
「では、当日よろしくお願いします」
電話を切って、田川はバッグを持って執務室から出ると、入居しているオフィスビルのトイレに入った。化粧ポーチの中からパケを取り出して、爪の間に覚醒剤を掬うと、ミネラルウォーターのペットボトルから手の上に落とした水と混ぜて、歯茎に塗った。数秒で、頭の中に何重にもかかったカーテンが一斉にかき分けられたように感じて、立っていられなくなった田川は、便器の上に腰を下ろした。しばらくそのままの姿勢で宙を見上げていたが、引きつけのように笑いだしそうになるのをこらえながら、オフィスへと早足で戻った。
昨日の夜にかかってきた、非通知の番号。あれからもう一度鳴り、式野は新たな連絡先だけを伝えて電話を切っていた。その番号を鳴らすと、待ち構えていたように式野は電話を取った。田川は言った。
「あのトラック使ったん?」
しばらく間が空いた後、式野は言った。
「あの、なんか打ったり飲んだりしました?」
「うん。ちょっと頭整理しようと思って。どうなん?」