『封魔の城塞アルデガン』第1部:城塞都市の翳り
第9章:集会所
ラーダ寺院の中央に位置する広い集会所は、高窓から射し込む朝日が白亜の内装に照り映えて輝きに満ちていた。破邪の神格を祀る寺院にとって昇る朝日は闇の克服の象徴であり、その輝きをあまさず取り込み人々を力づけることを目指してすべてが緻密に作られていた。匠の技はいまや最高の効果を発揮し、寺院には影などかけらも残らぬはずだった。
だがそこに集う人々の顔をおおう影の深さは、およそ朝日の輝きなどで消し去れるものではなかった。
リアは祭壇近くに設けられた席に腰掛けていた。もともと色白の顔はいまや蝋のように生気を失い、空色の瞳は虚ろだった。朝日は淡い金髪にも照り映えていたが、それはその顔に掘り込まれた絶望を無残に際だたせるばかりだった。そしてか細い首筋に、この場を支配する恐怖の刻印が刻まれていた。
牙に穿たれた傷だった。
吸血鬼の牙の痕だった。
「では、そなたは吸血鬼の姿をはっきりとは目にできなかったというのか?」
大司教を補佐する司教グロスの詰問は、だが絶望に魂が凍った少女には霧の彼方の囁きほどにも届いてはいなかった。
「重大なことだぞ。なにか思い出せぬのか!」
「よい、グロス」ゴルツが制した。
「無理を強いても詮無い。だが、たしかに由々しき事態じゃ」
ゴルツはこの場に集うアルデガンの指導者たちを見渡した。
「これまでアルデガン内部に吸血鬼が侵入したことはなかった。我らはかつてなき恐るべき状況に置かれておる」
「吸血鬼の行方の探索は?」グロスが問うた。
「手を尽くしてはいますが、いまだ手係りはありません」
「洞門になにか異変は?」
「夜半前の魔獣が現れた乱戦の時が怪しまれます。夜の闇に身を溶け込ませ忍び込んだ可能性は否定できません」
「リアが襲われた時刻は?」
「少なくとも発見は、明け方まで間がある刻限でした」
「このことは外部に漏れたか?」
「リアを発見した者が複数おりますので、おそらく……」
「大司教閣下!」グロスが、いや、その場に集う指導者すべてがゴルツの言葉を待った。
「かくなる上は全ての者に事実を知らせ、今後はまとまって行動するよう告げよ。高僧たちを一人ずつ配置し万全の備えで臨め。疑心にかられ自壊するのはなんとしても避けねばならぬ!」
命を受けた僧たちが退出すると、立ち上がった大司教はリアの前へと歩を進めた。少女はその顔をおずおずと仰ぎ見たが、深く窪んだ眼窩の奥を窺うことはできなかった。
「そなたはもはや転化する定めを免れぬ」
ゴルツの厳しい声がリアの耳朶を打った。
「そなたは生きたまま吸血鬼と化してゆく。いや増す渇きに身を焦がし、ついには身近な者に襲いかかる。そのときそなたは真に魔物の眷属へと身を堕とし、襲われた者はそなたと同じく転化の定めに呪われる」
大司教は老いにやつれた手に握る錫杖を掲げた。一瞬、それは凄まじい力に満たされた。
「呪われた連鎖は絶たねばならぬ。我はアルデガンの長として、そなたに人として死ぬことを命じる。呪いに穢れた身から魂を解かれ、神の御元へ還りたまえ」錫杖がしだいに輝き始めた。
リアは輝く錫杖を見上げていたが、やがてゆっくり瞑目した。光あせた空色の目が、絶望の帳に閉ざされていった。
「よい覚悟じゃ……」ゴルツの呟く声、そして低い呪文の詠唱。だが扉を激しく叩く音が、呼ばわる声がそれらを破った!
「隊長、ボルドフ隊長!」「アラード?」
リアは驚いて目を開けた。ゴルツも詠唱を中断した。
「なにごとだ、騒々しい」ボルドフが開けた扉から赤毛の若者が飛び込んできた。
「見張りのガモフが行方不明です」「なにっ」「隊長がこちらへ向かわれてすぐ、代わりの者が上るまでの僅かな間に姿が消えたそうです。抜かれた剣がその場に落ちていました。ただごとではありません!」
「わかった」アラードに応えると戦士隊長は一同に告げた。
「手掛かりかもしれません。洞門へ戻ります!」
「頼むぞ、ボルドフ」グロスが応えた。
「行くぞ! アラード」返事がないためボルドフは振り向いた。「どうした? なにをしている」
だが、アラードは目を見開いて立ち尽くしていた。
「リア。そんな、リアだったなんて……」
赤毛の若者は蒼白だった。リアの顔色を映したように。
「なにかの間違いですよね、これは。リアが、まさか」
「間違いではない」グロスが答えた。「夜半過ぎ、リアは自室で吸血鬼の牙にかかったのだ。もはや助かるすべはない」
「助からない? そんな馬鹿な!」アラードは叫んだ。
「あなたがたはここでなにをしていたんですか? ただ集まって話し合っただけで、なんの手だても講じないなんて!」
「口が過ぎるぞ、アラード!」ボルドフが制した。
「おまえは吸血鬼の恐ろしさを知らん。我らはまずアルデガンの住人を守らねばならんのだ」
「リア一人さえ救えずになにをいうんですか! 吸血鬼を倒せば犠牲者は助かるというじゃありませんか」
「噂に過ぎぬ。確かめた者などおらん!」上擦った声でグロスが叫んだ。
「犠牲者が転化する前に吸血鬼を倒せた例など、これまでただの一つもありはせんのだぞ!」
「だから吸血鬼には手を出さないんですか? 野放しにするんですか? だったらこれからも、いくらでも犠牲者が出るだけじゃないですかっ!」
アラードのその言葉がリアの耳朶を貫いた。絶望に凍りついた心が激しくゆさぶられた。自分のこの恐怖、この絶望。これは自分だけを襲うのではない。誰もが恐ろしい牙の餌食になりうる。今夜襲われるのは破邪の祈りを捧げる子供たちかもしれない。
そんなことがあってはならない! リアは知らず立ち上がっていた。すべての視線が彼女に集まった。
「……私が助かるなどとは思えません。死ぬべき身であることは免れないとわかっています。でも……っ」リアの頬を一筋の涙が伝った。だが同時に、空色の目は激しい光を宿してもいた。
「私のほかにもこんな目にあう人が出るなんて、そんなことには耐えられません! 私はなんの役にも立てないのですか? このまま誰ひとり守れず、無為に死ぬしかないのですか!」
しばしの重苦しい沈黙の後、やがて白い長衣をまとった人影が立ち上がった。アザリアだった。いつも穏やかなその顔は激しい葛藤に歪んでさえいた。一瞬の逡巡を見せた後、だがアザリアは胸を押さえつつ口を開いた。あたかも教え子の声に、言魂に射抜かれでもしたかのごとく。
「大司教閣下! たった一つ、吸血鬼の行方を知る方法があったはずです。一つでも手掛かりを得た上でなんらかの対策を講じるべきです」
「探知の秘術を使えというのか」
ゴルツの言葉にあたりがざわめいた。
「探知の秘術? なんですか、それは」アラードがたずねた。
「吸血鬼とその犠牲者のいや増す精神感応を利用して、犠牲者の意識を足掛かりに吸血鬼の意識を探ろうとする術のことよ」
アザリアが答えた。
「うまくいけば、吸血鬼に気取られず手掛かりを掴める可能性がある。でも、恐ろしい危険も伴うの」
「失敗すれば吸血鬼に気取られるばかりか術者が支配されることもあるではないか!」怒気で真っ赤なグロスの顔を、怯えめいた表情が一瞬よぎった。「そんな恐ろしい術を閣下に使わせようという気か!」
作品名:『封魔の城塞アルデガン』第1部:城塞都市の翳り 作家名:ふしじろ もひと