短編集67(過去作品)
特効薬
特効薬
白鳥さやかは、最近毎日が楽しくて仕方がない。仕事をしていても失敗する気はせず、まわりからも慕われている。会社を離れれば、彼氏である中村聡の存在が、すべてを明るくしてくれる。そんな毎日を送っているのに、一日のうちの数分ほど、怖くて仕方がない時間帯があるのだ。
ある日、さやかは体調を壊した。普段からあまり身体が丈夫ではないさやかだったので、いつも常備薬を持ち歩いていたが、ちょうどその時、風邪薬を切らしていて、会社の帰りにでも買えばいいと思っていた。
普段は少し残業してから帰るのだが、さすがに定時まで仕事をこなすと、一気に疲れが指先の痺れとなって襲ってきた。その日のしなければいけない仕事を優先してこないしことで、定時には帰れる段取りはつけていた。
「お先に失礼します」
そう言って、事務所を後にすると、課長が後ろから追いかけてきて、
「大丈夫なのかい? あまり顔色がよくないようだが」
部下思いの課長は、心配そうにさやかに話しかける。いつも気を遣ってくれる課長には頭が下がる思いで、
「ええ大丈夫です。ちょっと風邪を引いたかも知れません。すぐに治してきますよ」
と答えると、課長も安心したのか、頭を下げ、踵を返して事務所に戻っていった。
実際は薬を飲んで一晩寝ただけで治るものかどうか、ちょっと不安だった。自分の身体は自分でよく分かる。熱はなさそうだが、身体のけだるさはかなりなもの。こういう時はえてして長引くものであった。
表は残暑厳しく、西日が最後の力を振り絞るかのように照りつけていた。いつもは日が落ちてからの退社だったので、日差しが余計にまぶしく感じる。体調の悪さをさらに増長させるかのようで、日差しが少し煙たく感じるのは、空気の悪さをかもし出しているかのようだった。
アスファルトの上に砂埃のようなものが舞っているのを見ると、それだけで体調が最悪に感じられる。子供の頃、女の子と遊ぶよりも男の子と遊んでいる方が多かったさやかは、学校が終わると、いつも夕方の公園で遊んでいた。夕日が差し込んでくると、いつも砂埃を意識していたようで、その頃に見た夕日の黄色い色を思い出すだけで身体にだるさを覚えるのだった。
公園から沸き立つ砂埃を吸い込んだことで、器官が弱くなり、すぐに熱を出すようになったのかも知れない。また、湿気も苦手で、特に塩分を含んだ湿気は苦手で、海水浴は大嫌いだった。もっぱらプールばかりだったおかげで、水泳は得意だった。
そんなさやかも大学時代にスイミングクラブに通っていた。目的は美容のためだが、泳ぐことが嫌いなわけではないので、スイミングクラブの中でも泳ぎは達者な方だった。スイミングクラブに通ってくる人の中には水泳の苦手な人もいる。美容や健康を目的にしている人は歩くだけでもいいからだ。
泳ぎの達者なさやかは、それをひけらかすようなことはなかった。泳げない人にも優しく手を差し伸べるところがあり、それが彼女の人気に火をつけた。クラブを出ても個人的に付き合う人も増えてきて、人の世話を焼くのが好きなさやかに頼ってくる人も少なくはなかった。
人から頼りにされることは嬉しい限りであった。中には難しい相談もあり、苦悩したこともあったが、場数をこなすことが、さやかの成長を一気に促したようで、相談に答えたことで裏目に出たことはほとんどなかった。
ただ、それでも時々人に助言するのが怖くなることがあった。それは自分が孤独だと思い込んでしまう時があったからで、人と会うのも億劫になり、ほとんど人と連絡を取らないこともあった。
まわりの人は心配してくれる。心配してくれればくれるほど、自分の孤独感が増してきて、こんな時は何をしてもダメであった。一人になるのが最善の薬だと思ったさやかは、何事もやり過ごすことに徹していた。そうすれば、一週間ほどで、そんな時期は通り過ぎてしまう。
これが鬱病なのだということを、後になって知った。言葉は聞いたことはあったが、自分のまわりにはそんな人がいなかったからで、しかも、鬱というのは、いきなりやってくるものではないと思っていたからだ。持って生まれた性格から起こるものだと思っていたこともあって、孤独が襲ってきた時には、自分ではなくなってしまった気がしていた。
人のことばかり考えているつけが回ってきたのだろう?
自分のことも分かっていないくせに人のことなど考えるだけおこがましいと言えなくもない。そう思うと、人のためと言っておきながら、自分の中に驕り高ぶりがあったように思え、自問自答を繰り返すことで、自分の殻に閉じこもってしまう。堂々巡りを繰り返すことの憤りを初めて感じたのだ。
それまでのさやかは自問自答を繰り返していなかった。決めたことを事後承諾の形で自分に再度確認することが自問自答だと思っていた。もう一人の自分はただ承認印を押すだけの役割り、それでは自問自答にはならないではないか。そんな時期が続いたことで、スイミングクラブを辞めることになった。
いきなり辞めてしまったさやかに、他の人は複雑な思いだった。苦しんでいるのを知っている人は仕方がないと思っているし、事情を知らない人は、自分勝手に見えたかも知れない。人に助言をしていた人がいきなりいなくなるのである。そう見られることを、さやかも覚悟はしていたことだろう。
さやかにはそんな二重人格的なところがあった。自分でも嫌で仕方がない時もあるが、いいところもあるのだから、これでいいのだと思う時もある。これこそが二重人格性の表れであった。
そんなさやかにも彼氏ができた。社会人になって一年目、短大時代に彼氏がほしいと懇願していたにも関わらず、できなかったのにである。懇願している時にはできずに、ある程度開き直るとできるということが往々にしてある。世の中そんなものである。
短大時代、自分から彼氏がほしいと人に話したことはない。まわりの友達に彼氏がいて自分にいないことが我慢できないのに、人にその気持ちを悟られるが嫌だった。それなのに、まわりはさやかに彼氏の話をしてくる。
「あなたが一番話しやすいのよ」
などと言われれば、露骨に嫌な顔もできない。その頃から人の世話を焼くことが多かったさやかである。ついつい個人的な付き合いが多くなると、相談を受けることも多かったのはいいのだが、相談が解決した後には、彼氏へののろけが待っている。自分でもいつ爆発するか分からない状態になっていたが、不思議と爆発することはなかった。
熱しやすく冷めやすい性格だと思っている。そのわりに、まわりからは落ち着いた性格に見られているようだ。それはそれでさやかにはありがたかった。自分の本当の気持ちだけは誰にも知られたくないという気持ちが一番強かったからだ。本人とすれば自分の殻に閉じこもっているわけではない。個性を人に知られたくないという気持ちからだった。
個性は表に出すものだということを知らなかった。表に出さずに内に籠めておくものは個性ではない。それを個性だと思っていたのは、心の奥では決して人は信じるものではないと思っているからだろう。
作品名:短編集67(過去作品) 作家名:森本晃次