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私には要も急もある 羽田涼子VS新型ウイルス感染症

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 目の前の光景が信じられなかった。トイレの個室が水浸しになっていた。床に置いといたトイレットペーパーもグショグショで使い物にならない。管理人さんからの説明によると、上の階で水道管の漏れがあり、真下にあるこちらまで水が落ちてきたという。水漏れでダメになったカーペット等は弁償すると言ってくれたが、そんなものはどうだっていい。トイレットペーパーだけを返してほしかったが、それは言う気になれなかった。

 私は走っていた。入手できそうな場所をネットで調べていると、なんと結衣のマンションからそう遠くない場所にある大型のドラッグストアで、棚に並べ始めているとのSNS投稿を見つけたのだ。夕方に並べることもあるのか。投稿は三十分前だ。最寄り駅から全速力で駆け出した。家のトイレットペーパーはダメになったし、まだ残りがあると思ったティッシュはもう空だった。店に入荷した数はわからないが、サイトで見た画像ではかなり広い店舗だったから期待できる。入荷に気づいた人が少なければまだチャンスはある。

 店に着いたときは息が切れる寸前だった。求める物の場所は探すまでもなかった。奥の一角で騒ぎが起きていたのだ。状況はよく呑み込めないが、どうやら販売開始のタイミングを巡って店側と客の間で一悶着あり、それはいまも続いているようだ。棚には上から下まで何十というロールのパックやティッシュ箱が詰め込まれている。いまから列を作ったり、整理券を配るわけにもいかないのだろう、責任者と思われるネクタイ姿の男性は困り顔だ。周囲にいる店員さんたちは、棚に手を伸ばそうとする客たちを押し戻すように制する。一触即発。張り詰めた空気。恐い。マスクならまだわかるけど、お尻を拭いたり、鼻をかんだりするものだよ? おかしいよ。もちろん自分だってそれを求めてやって来た一人だけど……。

「早く売れよ!」と誰かが叫ぶ。その声をきっかけに他の客たちも大声を出し始める。中には店員さんたちに向かって聞くに堪えない言葉を浴びせる人もいる。ふと、大学のゼミで一緒だった渡瀬君のことを思い出した。彼は確かドラッグストアでバイトをしていると言っていた。彼も今頃、このような状況で苦闘中なのかもしれない。

 口火を切ったのは紫色の髪をした中年女性だった。彼女は棚の前に立つ店員さんたちを押しのけてトイレットペーパーのパックを掴み出した。他の客も続けとばかりに殺到する。
「やめてください! 危ないですから!」と悲痛に訴える店員さんの声が空しく響いた。
 そのとき、私の中で何かのスイッチが入った。詰め掛ける他の客らと同じように、自分も渦の中に飛び込んだ。周囲の客を掻き分けて棚へ突き進む。私の頭にあったのは結衣のことだけ。独りで苦しむ彼女を少しでも安心させたい。ジョーカーみたいになってしまいそうなあの子を、ほんのちょっとの安心で救えるかもしれないんだ。あなたたちとは目的が違う。私にはもっと大事な理由がある。だからお願い、私に買わせて。

 私はうずくまっていた。髪留めはどこかへ飛ばされ、誰かに強く引っ張られたのだろう、ダウンジャケットの袖が破れている。棚はすべて空で、客たちは皆、レジへ向かっていた。私は両手でトイレットペーパーの六ロール入りパックを大事に抱えていた。必死になって手に入れたトイレットペーパー。「何やってるんだろう」と小さくつぶやいた。
 立ち上がって横を見ると、片付けをする店員さんに、小学校低学年くらいの女の子を連れた女性が話しかけていた。

「もう売り切れてしまいました。申し訳ありません」
「そうですか、残念です」
「せっかく来ていただいたのに、すみません」
「気にしないでください」

 あの親子らしき二人もどこかで情報を得たのだろうか。遅かったようだ。いや、よかったのかもしれない。子供にさっきの大人たちの醜態を見せなくて済んだのだから。

「ここにもなかった!」となんだか楽しそうに両手を挙げる女の子。
「また他を探しに行こうね」
「どこかにあるといいな!」

 私の前を通り過ぎ、出口へ向かおうとする二人を見て胸が痛んだ。一瞬迷ったが、決心して女性に声をかけた。

「あの、すみません」
「はい?」
「えっと、よかったらこれ、お譲りします」
「そんな、いいんですよ。あなたも苦労して手に入れたようですし」
「ああ、いや、大丈夫です。最近、便秘気味だし。あ、ごめんなさい。下品ですね。とにかく、小さい子もお連れですし、必要でしょう。本当に私は平気ですんで」
「それなら、お言葉に甘えて」

 女性にロールのパックを手渡す。

「ありがとう!」と女の子がお礼を言う。
「どういたしまして」

 レジへ向かう二人を見送った私は食料品のコーナーに行った。日持ちしそうなものをあれこれと選んでカゴへ入れる。お菓子も買おうと売り場を覗くと、ある物が目に入った。カンザスドーナツだった。ほぼ誰も手をつけていないようで、山積みになっている。昨年末もここで買って結衣の家に行ったことを思い出す。結局、いまだに食べていない。彼女はもう食べたのだろうか。結衣の家にまだ余っている可能性も考えつつ、カンザスドーナツの缶詰二つを手に取った。

 店を出る際、入り口近くにいた、責任者であろうネクタイ姿の男性に謝罪した。

「気にしないでください。こういう状況ですから。仕方ないですよ」
「そんな気はなかったんですけど、なぜかあのときは……」
「お客さんは良い方です。さっき、見てしまったんですが、子供連れの女性に譲ってくださったでしょう」
「見られてたんですね、恥ずかしい」
「すみません」
 二人して苦笑いした。
「それじゃあ、私はこれで。がんばってください」
「お客さんもお気をつけて」

 男性に会釈をして、私は外へ出て行った。
 

「ボロボロじゃない! どうしたの?」
「任務失敗しました……」
「お、おう。とにかく入りなよ」
「うん」

 汚れたスニーカーを脱いで、結衣の部屋に上がった。買って来た食料品を床に置いたと同時にどっと疲労が襲いかかり、壁にもたれて座り込んだ。向かいの姿見に映る自分の姿はさながら負傷兵だ。

「何があったの?」と結衣が不安気な表情で聞いてくる。
「いや、ちょっと。マラソンの集団にぶつかっちゃって」
「さすがにそのウソはないわー。しかも、このご時世に」と結衣は苦笑しつつツッコミを入れた。よかった。やっぱり、この子はタフだ。とはいえ、髪はボサボサでメイクなどしておらず、大事にしていたはずの<F8>パーカーには醤油か何かをこぼしたシミが残っている。部屋も散らかり放題だ。
「変に誤魔化すのもあれだから正直に言うね。ドラッグストアでトイレットペーパーとティッシュが入荷するところだったから挑戦したんだけど、お客さんが殺到してもみくちゃにされちゃった」
「私のためにそこまでしてくれたの?」
「気にしないでいいから。結局、手に入らなかったし」

 現場の醜い混乱のことは黙っていた。結衣に心配をかけたくないことが一番の理由だが、自分が晒した醜態を知られたくなかったことも私の口をつぐませた。

「そこまでしてくれたことが嬉しいよ。ありがとう。食べ物もたくさん」