私には要も急もある 羽田涼子VS新型ウイルス感染症
「簡単に調理できるものとか、いろいろ買ったよ。そうそう、これも買っちゃった」と私は缶詰をこたつテーブルの上に置く。
「あ! ドーナツ! 完全に忘れてた!」
結衣は急に立ち上がると台所へ行き、大量の缶詰を持って来た。それらもカンザスドーナツだった。
「それって、もしかしたら年末に私が買って来たやつ?」
「あの日は結局食べなかったでしょ。で、仕舞ったままずっと存在を忘れてたんだ。涼子も何も言ってこなかったし」
「実は私も忘れてた。買い占めるように買ったくせにね」
「じゃあ、今日お互いに初めて食するとしますか」
「はい、そうしましょう!」
結衣はコーヒーを淹れに立ち、私は少しの間、目を閉じて横になる。
「起きて、起きてよ涼子。コーヒーが冷めちゃうから」
結衣に起こされ、目を覚ます。一、二時間は寝ていたように感じるが、実際は十分かそこらしか経っていないみたいだ。
「ごめん、眠りに落ちてしまった」
「戦い疲れた戦士って感じだったよ」
「なんか恥ずかしいな。コーヒー淹れてくれてありがと」
私は缶詰のフタを開けた。開け切る途中からレモンの甘い香りが鼻に吸い込まれていく。食べる前から糖分を摂取した気になる。
「これ、ラベルで損してるよ。実物のほうが遥かに美味しそうだもん」と結衣がにこやかに言った。
「この香りだけでクラクラする」
「カンザスが産んだ、ベストセラードーナツをようやくご賞味するときが来たね」
結衣のその言葉を聞き、カンザスの人たちもウイルスで苦しんでいるのだろうかと考えてしまった。新しい名物を開発したのに、生産にも悪影響が出ていたとしたら。
「涼子? 大丈夫?」と結衣が言う。険しい顔でもしていたのだろうか。考えたことを口にしようかと思ったが、留まった。いまはウイルスの話はしたくない。
「なんでもないよ。食べよう」
ドーナツは本当に美味しかった。レモンが染み込んでやや水気のあるところはパイみたいだし、それでいてふっくらしたパンケーキの食感もある。チョコやシュガーの装飾がないから、重たい印象がなく、何個食べても罪悪感が少ない。罪なスイーツだ。
「二人で合計八個も食べちゃったよ。最初は『マズっ』とか言ってやろうかなくらいの気持ちだったけど、一口食べたあとは、もうずっと無心で」
「食べてる間、まともな会話はなかったね。二人共、『美味しい、美味しい』って独り言みたいに言ってただけ」
「美味しいものの前では、余計な言葉は要らないんだよ。味わうだけでいいんだ」
結衣の言うとおりだ。一番の友達と共に美味しいものを味わう。これ以上の幸せが他にあるだろうか。これから世の中がどうなるのかはわからない。今朝のニュースでは、電車の中で咳をしたことに端を発する乗客同士のトラブルで傷害事件が起きたと伝えていた。欧州では外出禁止令が出された国もある。感染者数、死亡者数は増加する一方だ。私は職もないし、資格や能力もない。共働きの実家もお母さんが働けない状況だから、家計は苦しいだろう。親を頼るわけにもいかない。私はこの先、どうにかなるかもしれないし、もうどうにもならないかもしれない。それでも、いまは幸せだ。目の前には結衣がいる。甘いドーナツと温かいコーヒーがある。いまのこの穏やかな気持ちの記憶を忘れなければ、大丈夫だ。
「あーあ、早く普通のいつもの生活に戻りたいな」
しばしの休息。戦いは続く。
× × ×
あとがき
この短編小説は、二〇二〇年三月一八日から一九日の二日間をかけて、日本在住の私が書いたものです。いま、私たちが置かれている状況を思い、小説という形で気持ちを吐き出したくなり、急に思い立って、勢いで書きました。登場人物は架空ですが、自分の体験や見聞きして感じたことを投影したつもりです。映画の小ネタが多いのは、単純に私が映画好きだからです(私自身は『ワイルド・スピード』の三作目も好きです。チョコレートのシーンは笑ってしまいましたが)。
非常に稚拙な作品です。小説と呼べるものかもわかりません。特に何かを強く訴えたいわけではありません。本作をお読みいただき、一つの読み物としてわずかのお時間でもお楽しみいただけたら、とても嬉しく思います。そして、こんなことを言うのは大変おこがましいですが、もし本作が何らかの行動のきっかけとなれば、これ以上のことはございません。それは、皆さんなりの表現行動であったり、品物の譲り合いだったり、周囲の人への優しさであったり、どこかへのご寄付だったり、日々の仕事や家事や勉強により一層打ち込むことであったり、日常の幸せをかみしめることだったり、様々です。そのどれもが皆さんにとっての、この世界的困難への戦い方だと思います。自粛や避難も、あるいはそうしないことも、すべてご自身で深く熟考された末の決断であれば、私はそれを支持します。
最後に、私が好きな映画から、ある台詞を引用させていただきます。
「よーく考えろ。そして、どうにでも好きなようにすればいい」
二〇二〇年三月 日本のとある街より
作品名:私には要も急もある 羽田涼子VS新型ウイルス感染症 作家名:シネラマ