短編集66(過去作品)
紀子は話を聞いただけで、何も知らないことを決め込もうと思っている。ただ特に母親のいうように結婚を考えてしまうと、紀子が先生が帰ってきていることを意識していて、しかもそれが自分の過去と結びついていることを悟るだろう。逆に結婚を考えていないと思うならば、今度は紀子が先生を意識してしまうことで、自分の二の舞を踏んでしまうことを懸念するに違いない。とにかく知らないことを決め込んで、母親の話を無視することが大切だった。
知らないということが何を意味するか。曖昧なことを覆い隠すためには非常に便利でいいのだが、相手から何を考えているのだろうと思わせてしまうところは難点である。
知らないということは、愚かなことで情けないこと。これも母に教えてもらったものだ。教えた者と教えられた者、それぞれの立場で真剣に知らないということを考えなければならない関係にあってしまった。知らないことをいかに利用できるのはどちらなのだろう。そう思うと、紀子は愚かな道を選ぼうと考えた。愚かなことは反省すれば前に進めるが、情けないことはもう一人の自分によって戒めを受けることになるので、なかなか前に進めないと感じるのだった。愚かさが情けなさに変わるのである。そう思うと紀子は知らないことが罪にすら思えるのだった。
母が結婚を勧めようとしなければ分からなかったこと、そのことでたくさんのことがわかってきた。分かってくると、知らない方がよかったと思うことも少なくはないだろう。それでも母は紀子に勧める。
――やはり親子なんだ――
知らないことを戒めを、母が救ってくれるかも知れないと思う紀子だった……。
( 完 )
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次