Freefall
筆箱を取り出して中身をひっくり返すと、綺麗な『お気に入り』の鉛筆と、ストレスをぶつけて先端が凹んだ鉛筆がころころと転がって出てきた。もう一度揺すると、嫌な音が鳴らない芯が入ったシャーペンも、遅れて出てきた。中に残っているのは、目盛りの消えかけた定規と、戦闘に使われたみたいに、斜めに削られた消しゴム。スチール製の小さな分度器も出てきた。四十五度なら四十五度で、どんな問題文に書かれている図形も、一度測らないと気が済まなかった。わたしはそれを手に取って、昔やっていたみたいに、頭をコツコツと叩いてみたけど、その鋭さと痛さにすぐやめた。
「ありえないな」
独り言を言いながら、分度器を机の上に置いた。こんなに痛いなんて。部屋の電気に分度器をかざして、影絵のようにしていると、ゆっくりと階段を上がってくる音がした。ノックのやり方は、昔から変わらない。母特有の、間がある。
「奈央、ちょっといい?」
わたしが返事の代わりに扉を開けると、母が言った。
「早苗のことなんだけど」
何となく、その話になる予感はしていた。わたしは、早苗に謝らなければならない。ちゃんと話すなら、二人きりがいいと思っていたけど、もう全員が聞いていたとしても、構わない。
「わたし、勉強に集中したくて」
言い出すと、栓を抜いたみたいに止まらなくなるのは分かり切っていた。でも、ぐだぐだになりそうな一回目を母にだけ言えるというのは、どこか安心感があった。
「早苗に、勉強の邪魔しないで、三時間だけは一人にしてって、言ってたの」
母は小さくうなずいただけだった。それが遠い昔の話で、記憶を辿るのに千切れた糸をいくつも結ばなければならないみたいに、目を細めた。
「高校受験のとき?」
「うん。家帰ってきてさ。ご飯までの間、勉強してたでしょ。その間は一人にしてって、言ってた。他にいるとこなんてなかったのに。ほんと、どうしてあんなに余裕がなかったんだろって、今になって思うの」
母は黙って聞いていたけど、ふと勉強机に目を向けた。
「益田さんとは、結婚も近いの?」
「お母さんまで、その話? 荷物取りに来るの、手伝ってくれただけだから。でも、一緒には住んでるし、友達からは夫妻って呼ばれてる」
「そう。色々片付いたら……」
母はそう言って、部屋の壁にかかったカレンダーを見た。四年前で止まっている。でも、お互い明日は月曜日だってことが分かっている。
「もう八時だよ」
「帰るのに、どれぐらいかかるの?」
「二時間ぐらい。家は売らないんだよね?」
「私らがこの家から出ることは、ないと思うわ。そろそろ、おいとまかしら」
母はそう言うと、やり残したことを思い出したように、後ろを振り返った。そのまま体ごときびすをかえして、階段を下りていった。そう、わたしはもう帰らないといけない。
机の上に我が物顔で置かれた、わたしのスマートフォン。派手なカバーがついていて、どう見ても場違いだ。あの高校に通っていたら、もっと地味なカバーをつけていただろうか。わたしは、かつて自分が行こうとしていた高校を検索した。早苗が着ていた、あの制服。袖を通しているのがわたしだったら、何かが変わっただろうか。スマートフォンで検索すると、『もしかして』に違う候補の高校が出てきて、わたしは笑った。あれだけの努力をしたのに、別の高校とごちゃ混ぜになるなんて。でも、何度検索しても、『もしかして』が消えない。
母はそもそも、何を言いに来たんだろう。また、階段を上がってくる音がして、その足音は母のものだったけど、少しだけ速かった。鍵ががちゃりと回って閉じられる音がして、母が言った。
「奈央、絶対に部屋から出ないで」
わたしは握りしめていたスマートフォンの画面に、視線を落とした。そこに答えがある気がしていた。
『もしかして』の候補に上がった高校。その沿革のページに、答えが書かれていた。
わたしの志望校は、二年前に統合されて、学校名も制服も変わっている。
「お母さん、早苗の制服……」
「あの子、精神的にちょっとおかしくなってて。病院に通ってるの」
早苗は、高校に通ってなんかいない。もう存在しない学校の制服を手に入れて、外をうろついているだけだ。家中のものを捨て出したのに、二人とも放っていた理由が、やっと分かった。
『部屋見たいけど、ぼちぼち帰るか?』
頭の中をかき混ぜるために送られてきたみたいに、タケマルからの返信が届いた。『あとで部屋に来て』と言っていたことすら、忘れていた。わたしは手短に返信した。
『うん、帰ろ。先に車に乗ってて』
「早苗は、奈央がどんな風に暮らしているのか、気にしてた。あなたの言うことだけは、よく聞く子だったから」
確かに、わたしの言葉は、早苗にとって絶対だった。『部屋から出て』と言うだけで、お風呂から上がって、勉強モードになったわたしが部屋に戻ってくると、もぬけの殻になっていた。
「わたしを目標にしてたってこと? 幻滅させちゃったかな」
わたしが言うと、母が扉の向こうで笑ったのが、空気の揺れで分かった。
「幻滅なんかはしてないわ。ただ、私もお父さんも、早苗が何を考えてるか、分からないの。危険なことをするわけじゃないから、見守るしかないのよ。でも、時々うわごとみたいに、話し出すと止まらないときがあって」
それは、早苗だけの問題じゃないはずだ。
「お母さん、さっきの話だけどね。早苗に謝りたいんだ。それで、あの子が楽になるなら……」
「何を? 一人にしてって話?」
母の語気は、柔らかななまま変わらなかった。わたしがずっと後悔してきたこと。母からすれば、どうってことないのだろうか。姉妹の『あるある』だとは、どうしても思えない。わたしが黙っていると、母は続けて言った。
「そんな話は、一度もしてなかったわ。第一、私は部屋で一緒にいると思ってたのよ」
わたしは思わず、机の上に散らばったかつての勉強道具に目を向けた。早苗は、わたしが分度器で自分の頭をコツコツやる癖のことを、どうして知っているんだろう。
「ねえ、うわごとってさ。何て言ってるの?」
母は、それが不可解な世迷言であるように、少し間を空けた後、言った。
「勝った、って。ごめんね、夜まで引き留めて。ずっと普通じゃなかったから、奈央が帰ってきて、ほっとしたのかも。とりあえず、ちょっと部屋にいて」
「分かった。ありがと」
そう答えると、母は階段を下りて行った。頭の中で勝手につながった、一本の線。わたしは、今までに触れもしなかった箪笥の扉を開いた。祖母の服が数着かけてあるだけで、がらんとしている。元々、大したものは入っていなかったんだろう。天板に穴が空いていて、光が漏れている。わたしは服をどけて、中をスマートフォンで照らした。