Freefall
隙間がないぐらいに書かれた、幼い文字。ただ殴り書きされたものではなくて、全て数式。早苗は、部屋から出ていなかった。わたしが勉強している間、ずっと箪笥の中で見ていたんだ。同じ問題を解きながら。わたしが諦めるきっかけになった、あの難問。その図が、他の文字を塗りつぶすように大きく書かれていて、当時のわたしが見落とした相似形の三角形二つが、合板を抉るように囲われていた。その下に書かれた文字が、つい数時間前更新された、今の早苗の声で頭に響いた。
『勝った』
わたしは、スマートフォンを手に取った。手先が震えて時間がかかったけど、どうにかしてタケマルにメールを送った。
『今から出るから』
箪笥を傾けて窓を開けると、わたしは二階のひさしを伝って、一階に下りた。反抗的な高校生だった頃の習慣が、こんなところで生きるとは思ってもいなかったけど、体を支える力は明らかに弱くなっていた。息を殺したまま玄関を開けて靴を履くと、車の方へ歩き始めた。
早く、ここから離れないといけない。真っ暗でしんと静まり返った中に、乗ってきた車が見える。でも、エンジンはかかっていない。わたしが家を振り返ったとき、スニーカーのかかとを片足立ちで押し込みながら、タケマルが歩いてくるのが見えた。
「出てたのかよ。かーちゃんから、もう遅いから帰りなさいって言われた」
わたしの母は、早々に『かーちゃん』になっていた。タケマルが運転席に座ってエンジンをかけるのと同時に、わたしも助手席に滑り込んだ。
「早く、行こう」
「箱は?」
「いいの。マジで早く」
タケマルは暖房を緩くつけると、ヘッドライトを点けながら車をUターンさせて、来た道を戻り始めた。家が遠ざかっていくのをバックミラーで一瞬見た後、わたしは大きく息をついた。タケマルが対向車に合わせてハイビームとロービームを忙しなく切り替えながら、言った。
「おい、大丈夫かよ。なんか飲むか?」
「大丈夫、マジで止まらないで。とにかく家まで戻ろう」
しばらく山道を走っていると、高速の入口が見えた辺りで、タケマルは思い出したように言った。
「おれ、挨拶もちゃんとせずに出てきたんだけど、感じ悪くなかったかな?」
タケマルとわたしの間で、あの家に対する考え方は山頂と海底ぐらい違うだろう。比べられないぐらいに。わたしが思わず笑い出すと、タケマルもつられて笑った。
「早苗は、病気だったんだ」
つられた笑いを止めるのに力が入ったのか、車が少し揺れた。タケマルは一度咳ばらいをして、言った。
「病気って? 普通に元気そうに見えたけど」
「体じゃないよ」
わたしはナビを表示し続けるスマートフォンで、自分の頭をこつこつ叩いた。タケマルは呆れたようにちらりとこっちを見た。
「精神的なやつか?」
高速道路に乗ってタケマルがスピードを上げると、ライトエースの中が途端に騒々しくなった。来るときはジェットコースターみたいで楽しかったけど、今はうるさくて仕方がない。同じ会話の続きとは思えないぐらいに間が空いた後、わたしは言った。
「そうだよ。いつからかは分からない。親も、早苗が何をしたいのか分からないって、言ってた」
あの制服は本物じゃないし、高校にすら通っていない。それを次に言いかけているということに気づいたわたしは、自分で自分を制した。追い越し車線を走る軽自動車にパッシングを浴びせてどかせたタケマルは、猛スピードのまま走行車線に戻って言った。
「ガリ勉ほど、キレるとこえーんだよな」
その雑なまとめ方は、タケマルそのものだった。どうしようもない粗暴な男と、そんな男がビールを飲む横で、ネイルが乾くのを待っているわたし。そうやって逃げてきた先でも、頭から消えないこと。早苗の、最短ルートで正解を見つけ出す才能。小四であれが解けたなんて、やはり天才だった。
タケマルがしわくちゃのAMラジオをつけて、車内が賑やかになった。間を繋ぐ役割から解放されて、わたしはシートに深くもたれた。それから一時間以上、わたしたちは無言だった。見慣れた景色はすっかり夜になっていて、アパートの前の路地に車を停めたとき、重荷から解き放たれたように、タケマルが言った。
「こいつを返してくるわ」
「明日はだめ?」
「朝、車がなかったら、バツ悪いでしょ」
タケマルはそう言った後、わたしの表情をしばらく眺めて、小さくため息をついた。
「あー、コインパ入れてくるか」
「どこの?」
「そこ」
一本裏の通りにあるところだった。数十メートルしか離れていない。目の前すぎて、笑ってしまった。わたしはアパートの前で降りると、隣にある小さい公園の遊具に座った。しばらく待っていると、タケマルが帰ってきて、隣の遊具に座った。バネで前後や左右に揺れるタイプのやつで、わたし達はそれとなくぶらぶら揺れながら、たまに顔を見合わせた。しばらく無言でいたけど、わたしは言った。
「ありがと」
タケマルは返事代わりに、遊具の上で大きな体をよじらせて、あっと声を上げた。
「あれ、ケータイがない」
いつも尻ポケットに入れていたはずだ。わたしが覗き込むと、確かに入っていなかった。
「ねえ、まさか家に忘れてないよね?」
「えー、知るかよ。ちょっと車見てくるわ」
タケマルがコインパーキングまで小走りで走っていくのを見届けて、わたしはため息をついた。一人になると、また渡壁奈央に切り替わってしまう。早苗の『勝った』という言葉。わたしに負けたことなんて、なかったのに。今のわたしがどんな生活をしているか知ったら、ばかばかしくなるだろうな。でも、それが知りたかったのだろうか。逃げたい一心だったということまで、分かっていたからこそ。自由を求めて抜け出した先の不自由さで、結局囚われているのが、今のわたしだということを、確かめたかったのかもしれない。
タケマルがすぐそこにいるはずなのに、わたしはスマートフォンを手に取った。
『あった?』
メールを送ると、すぐに既読になった。あったんだ。わたしは小さく息をついた。もうあの家に、何かを取りに帰りたくはない。
『あった。先に乗っててって、慌てさせるから』
返信が来て、わたしは笑った。いやいや、先に乗ってなかったじゃない。後から来たでしょ。わたし同様、タケマルは人の話なんか聞いていない。当然、わたしの言うことなんか、気まぐれで聞いたり聞かなかったり。でも、早苗なら。
わたしは頭に割り込んだ考えに、思わず肩をすくめた。早苗なら、何? 自分自身に問いかけると、すぐに答えが出た。早苗なら、絶対に言うことを聞く。
先に乗れと言えば、必ず。
『早苗?』
メールを送ると、揺れていた遊具が突然止まった。
見下ろすと、白い手が足元の棒を掴んでいた。それは、真っ暗に見える地面から伸びていて、タケマルのスマートフォンを握る、もう一方の手が見えた。着信を知らせる画面が暗闇を照らすと、その先に、ずっと欲しかったものを掴み取ったような笑顔の、早苗がいた。
「勝った」