Freefall
「実家を潰すぐらい言わないと、お姉ちゃんは帰ってこないと思ったの」
「へえ。帰ってきてほしかったの?」
わたしが言うと、早苗は小さくうなずいた。
「まあ、家も広くなったし。ある意味、潰したようなもんでしょ」
その淡々とした言い回しに、思わず笑った。確かにわたし達の知っている実家は『潰れた』と言ってもいいぐらいだ。父が、ナオキの方を向いて言った。
「益田くん、仕事はずっと建設系なのか?」
「建設なんすけど、事業を広げるみたいで、今は電検を取れって言われてます」
わたしが何度も聞き逃して、忘れた言葉。電検三種。問題集を家で見たことがある。最近は、ダーツ投げの的になっていた。
「建設業は大変だろ。現場代理人にでもなったら、気が休まらない」
「そうっすね、現代やってて、病んだ上司とかはいます」
ナオキを、日雇いの現場作業員から社員のポジションまで引き上げた人のことだ。わたしは、その話もよく聞いていた。名前は忘れたけど、もう会社を辞めてしまっている。父は主に、わたしの身なりを観察してから、ナオキに言った。
「雰囲気からすると、都会暮らしか? 何をするにも高いだろ」
「そうっすね。家賃とか……」
言いながら、早苗が興味津々で聞いていることに気づいたナオキは、苦笑いを浮かべた。
「月、五万ぐらいしますね」
実際には、四万三千円だ。どうして高い方にサバを読んだんだろう。わたしは早苗と目を見合わせて、眉をひょいと上げた。早苗にはその意味が通じなかったらしく、小さく首を傾げただけだった。父が『月五万』の重みを噛みしめるように、言った。
「住むだけで月に五万円は高いな。この辺にも、似たような仕事はあるぞ。暮らすのに金はかからないしな」
母が台所から帰ってきて、言った。
「スカウトしちゃだめよ」
「してない」
父の即答に、早苗が小さく笑った。母は台所を指差した。
「早苗、手伝って。お父さんも」
早苗が立ち上がり、素直に居間から出て行った。父も大儀そうに立ち上がり、痛がってもいなかった膝をさすりながら、母に言った。
「さあ、支度しますか」
二人が台所へ入って行ったのを見届けると、七福神のような笑顔で母が言った。
「ごめんねえ。久々だから。晩御飯まで居間には誰も来ないから、ゆっくりして」
静かにふすまが閉まり、わたしとナオキだけになった。
「金がかからない暮らしか……」
第一声がそれで、わたしは驚いた。もう二十四歳なのに、そんな簡単な言葉でぐらついてるんだろうか。
「マジで言ってる?」
わたしが言うと、ナオキは首を傾げた。
「いや、田舎に住むって話。そんなに金がかからないのかなと思って」
今まで、お金の苦労から解放されたことはない。ナオキからすれば、魅力的に思えても仕方がないかもしれない。特に根を生やしているわけじゃないから、どこにだって行ける人だし、それはわたしも同じだ。
「町内会とか、結構色々と拘束されるけど、でもお金はかからないかな。一週間分のご飯が、お裾分けで賄えたりとかさ」
「それ、すごいな」
ナオキは、作業服から洗濯ばさみ一本まで、全部自力で手に入れてきた人だ。人の財布から出てきたお金の場合もあるだろうけど、何かをもらったり、分けてもらった経験はあまりないんだろう。
「この家に住みたい?」
わたしは、冗談めかして言った。すぐに答えが返ってこなかったから、続きを自分で言った。
「リフォームされたみたいになってるけど、あとで二階を見てよ。ゴミ屋敷の面影があるから」
「勉強部屋?」
「うん。まあ、わたしと早苗の部屋なんだけど」
「あー、断捨離すっか?」
今の言葉遣いはどちらかというと『タケマル』だった。
「ほんとに、田舎に住みたいんだ?」
「いや、別に。都会は便利だし、そっちの方がいいっしょ」
百パーセント同意したい。でも、最後の一パーセントがどうしても埋まらなくなってしまっている。どうして早苗は、わたしを帰ってこさせようとしたんだろう。ナオキは同じことを考えているみたいに、呟いた。
「なんか、想像してたのと違ったな。お父さんとお母さん、明るい人だし。早苗さん? はポーカーだけど。でも、ナオに帰ってきてほしかったぽいし」
「身内だけのときは、あんな風に笑わないんだけどね」
記憶している限り、父と母は、明日まで生きるために最小限の呼吸だけをしているように、表情のない人間だった。第三者が入り込むと、それがスイッチのように七福神に切り替わるのだ。
「わたしは、渡壁の血を思い切り引いてるけど。怖いときとか、ある?」
「ナオはいつも明るいだろ」
ナオキは思い出す必要もないように、即答した。
並んでスマートフォンでゲームをしていると、あっという間に六時になった。突然二人の大人がやってきても、対応できるだけの食材がある。今朝、わたし達は卵二個から作ったスクランブルエッグを半分に分けて、コンビニでサンドイッチを買い足した。ナオキは、テーブルに隙間がないぐらい皿が並ぶ豪華な食卓に、驚いていた。父がお酒を勧めようとしたけど、ナオキは『車だから』と丁重に断った。わたしは、自分がいなくなった数年で、食卓を囲む風景が変わったのか、それが気にかかっていた。わたしがいた頃、食事は『食べる時間』。誰とも、ほとんど会話を交わしたことがない。父が食器を手に取り、母が続いて、早苗が『いただきます』をした。渡壁家の『無言の食事』は凄まじく速い。わたしは、敢えて何も言わなかった。ナオキが圧倒されて、うちの家が『何かおかしい』ということに気づいてくれればと思って、無言で食べ続けた。三十分もしない内にテーブルの上に置かれた皿は空になり、母と早苗が片づけを始めた。わたしはナオキの横顔を見た。小さく息をついたナオキは、立ち上がってホットプレートを抱えた。
「ごちそうさまでした。手伝います」
台所から戻ってきた母が、鉄板ごと軽々と持ち上げるナオキの姿を見て、笑った。
「益田さん、力持ちね」
わたしが手伝おうと立ち上がると、母は首を横に振った。
「奈央、久々なんだから。ゆっくりしてて」
父は半分ぐらい残ったビールを持って、書斎に引き上げていった。わたしはナオキのスマートフォンに『部屋に上がってます。あとで来てみて』とメールを送り、二階へ続く階段を上がった。勉強机とセットになった椅子の高さは、今のわたしにもぴったりと合う。高三まで使っていたんだから、当たり前か。早苗は、書斎から父を追い出して勉強していた。だから、参考書はそのままになっている。学校でコピーしていた赤本の束も、クリップ留めにして挟んである。背表紙に書かれている年号は、わたしが高校を受験したときのものだ。一冊を抜き出して開くと、電気スタンドをつけた。細かい字で隙間なく解説が書きこまれている。七年前の、わたしの字。英語や国語は勉強しなくても、ある程度ついていけた。でも、数学だけは別だった。