Freefall
「おれ、小学生でも教えられる気がしないわ」
タケマルは、わたしのスマートフォンに映るナビに、視線を落とした。高速道路から降りて、その道の険しさに目を丸くした。
「おー、下りたら別世界だな」
「田舎でしょ」
道はまだ、わたしの記憶と結びつかない。ニ十分ぐらい、急に狭くなったり、あらびきの胡椒が振りかけられたみたいな小石だらけの道をくぐりぬけていくと、ようやく視界が開けて、道路の両脇に田んぼが見えた。
「思い出してきた?」
タケマルは信号待ちで言うと、車がまばらに停まる公民館の方に目を向けた。
「思ってたより、賑やかなとこだな」
わたしは、この道を通って学校に通っていた。それを言おうか迷っていると、タケマルは畑を指差した。
「お父さん、畑にいたりしない?」
「万が一いたら言うから、引き返してよ」
「なんでだよ」
「お父さんもお母さんも、興味がある振りをするのだけは、得意だったよ。公民館で、渡壁家のことを聞いてみたらいいわ。多分、先祖代々伝わる家に住んでる、上品な一家だと思ってるよ」
わたしの記憶。正しく覚えているものもあれば、ねじ曲がっているものも。でも、これは率直な感想だ。タケマルからすれば、『外面だけへつらうのは、どんな家でも同じだ』と言いたくなるだろう。確かに、それは完全に正しい。
「どんな家でも、そーゆーとこはあるでしょ」
タケマルが言った。わたしはうなずいた。これ以上、話したくない。公民館の前を通りすぎて、最後の角を曲がると、あの妙に縦に長い、木造二階建ての家が姿を現した。壁の色から赤茶けた瓦まで、全てが記憶通りだった。わたしが望んでいた通りに色褪せていることもなかった。
「タケマル、あれだよ」
わたしが言うと、タケマルはボロ家に目を凝らせた。
「歴史のありそうな家だな。そんな狭く見えないけど」
「入ったら分かるよ」
わたしは少し広くなった路肩を指差した。
「待っててくれたら、パッと入って、パッと出てくるから」
返事を待たずに車から降りて、リアハッチを開けた。全力で遠ざかったはずの場所が、今目の前にある。玄関をよく見ると、伸び放題だった鉢植えや、郵便受けの上に置いてあった猫のぬいぐるみはなくなっていた。段ボールとテープを取り出していると、運転席から降りてきたタケマルが言った。
「一人で行くのか?」
「うん、そんなに私物ないし。来てくれてありがと」
わたしは玄関の引き戸をゆっくり引いた。早苗の言う通り、鍵はかかっていなかった。昔から、鍵をかけているところは見たことがなかったけど、都会暮らしが長くなった今では、あまりに不用心に思える。玄関はがらんとしていて、靴は一足もなかった。埃は綺麗に払われていて、色とりどりの靴ベラもなければ、傘立てもない。障害物競争のコースみたいに置かれた、野菜の絵が描かれた段ボール箱や、小指をぶつけると死ぬほど痛かったプラスチックケースも、なくなっている。ただ、置いてあったところだけ微かに色が違うから、そこだけは記憶と繋がっている。
父の『居場所』だった書斎の本は片付けられて、生き残った本はガラス棚の中に整然と収められていた。棚なんかに収まるはずのない冊数があったはずだから、かなりの冊数を捨てたんだろう。居間には新しくなったテレビと、新しいこたつに、積まれた座布団。横倒しに置かれたままになっていた竹馬は、片付けられていた。
「すっからかんだ……」
思わず、口に出た。これ、本当にわたしが育った家なの? あまりに広くて、がらんとしている。何をするにも、物を避けるか、乗り越えるしかなかったのに。しばらく一階にいて、タケマルを待たせていることを思い出したわたしは、早足で二階に上がった。絶壁のような急な階段を上がり切ると、すぐに現れる引き戸。レールは少し曲がっていて、開けるにはコツがいる。少しだけ持ち上げるようにしながら開けないといけない。試しに力をこめて引っ張ると、外れそうになった。この辺は相変わらずだ。部屋の中には、二段ベッドと勉強机がまだあった。
そして、あの箪笥も。ここだけ、昔の記憶のままだ。『大した私物なんかない』とは言ったけど、勉強机の引き出しの中身は、ほとんどがわたしのものだったはずだ。一つずつ開けていくと、わたしの筆箱や、卒業アルバムがそのまま残っていた。画面にヒビが入った、昔の携帯電話もある。
段ボール箱が要るほどでもなかったな。ガムテープを指でくるくる回しながら、考えた。でも、目覚まし時計とか、薄いピンク色の小物入れに、電子辞書。あと、オーディオプレイヤー。その辺が見当たらない。私物と聞いてすぐに浮かんだのは、卒業アルバムとかじゃなくて、そういう類のものだった。とりあえず卒業アルバムと筆箱を机の上に出すと、わたしは小さく息をついた。箪笥で半分塞がれた窓越しに、タケマルの声が聞こえた。
「あ……、こんにちは。ええ、あの……」
誰と話しているんだろう。わたしは窓を小さく開けた。タケマルの車が見えたけど、人の姿は確認できない。その分、声はよく通った。タケマルの声が再び響いた。
「ええ、そうなんすよ。私物を取りにってことで……。あ、そうです。お付き合いさせていただいてます」
「まあ、そうなんですの」
お母さんの声。わたしは窓を閉じて、隠れるようにその場に座り込んだ。玄関の引き戸が開けられる音。部屋の中に声が響き渡った。
「おーい、奈央。帰ってきてるのか?」
お父さんだ。早苗は『いつでも取りに来たら』みたいに言っていたけど、まだ住んでるんだから、家族と鉢合わせするのは当然だ。どうしてそんな単純なことに気づかなかったのか。もう、引き返せない。覚悟を決めたわたしは、二階から声を張り上げた。
「帰ってきてます。急にごめんなさい」
家の中が賑やかになって、足音で満たされていく。タケマルの足音すら混ざっている。わたしが二階から下りると、居間と廊下の間で立ち話をする三人が見えた。背中を向けているタケマルはやや猫背で、ぺこぺこしている。その背中越しに、父と母がいた。四年経っても、その笑顔は変わらない。身内には決して見せない表情。タケマルが振り返って、渡壁家の長女であるわたしに言った。
「私物、集めた?」
「うん」
「奈央、随分変わったな」
会話に割り込むように父が言った。母が子供時代のわたしを見透かすみたいに、表情をやわらげた。
「ほんとね。でも、化粧上手だわ。益田さん、奈央は気が強いでしょ」
タケマルの本名。益田直樹。ほんとはナオキと呼びたい。でも、自分の名前と被っているから、どこかで引っかかってしまう。
「どうでしょう。繊細だとは思いましたが……」
わたしに言ったこともない印象を、今日初めて会った母に話すナオキ。その印象がわたしを『ほぼ』表しているとでも言うみたいに、深くうなずく父。三対一なら、多数決でわたしは『繊細な人間』ということになってしまう。ただ、早く帰りたいだけなのに。母が言うことは、想像がつく。そして、ナオキが断らないということだって、わたしには分かっている。渡壁家の象徴である七福神のような笑顔は、人から『遠慮』を奪ってしまう。
「ご飯でも食べていったら?」