Freefall
もう、踏み込まれたくない。タケマルがタケマルでなくなってしまう。わたしのしかめ面に気づいたのか、缶ビールを飲む手が止まった。
「いつ、取りに行くんだ?」
「分かんない。わたしの私物がどれかも、思い出せない気がする」
「箪笥が半分塞いでいる部屋で、妹の相手をしながら勉強かよ。大変だな」
タケマルの頭の中には、もうガリ勉時代のわたしと、茶色の古臭い箪笥が浮かんでいるだろう。そのイメージは相当具体的だろうし、ほぼ的中しているに違いない。
「気の休まる暇がなかったね。結局、推薦狙いだった志望校には落ちたし。ガチで受ける前に心が折れたんだ」
わたしが言うと、タケマルはビールの一口に逃げた。
「模試とか、問題集とかで、力試しするじゃん。タケマル、相似って分かる?」
「明日、昼からやっちゃうつもりだけど?」
「掃除じゃないって。面積を求める問題でさ。大きさは違うけど、実は形が一緒の図形が隠れてることがあるの。それに気づけたら、ぱっと見手掛かりがない図形でも、角度と辺の比は簡単に決まるでしょ」
タケマルは、すでにわたしの話なんかは聞いていなくて、掃除の面倒さに今から憂鬱なようで、少し顔を曇らせていた。でも、二部屋ある理由は、なんとなく分かってくれたはずだ。しばらく間が空いて、返事が口から漏れた。
「へえ」
「まあ、そんな図形がいっぱい重なった問題なんだけど、一つだけ、どうしても分からなかったんだ」
「答えを見ても?」
「見たらすぐに分かったよ。自力で無理だったってだけ。いつも、赤本の問題だけコピーして、学校で答え合わせしてた。その場で分かったら、覚えられないから。てか、そこまで難問じゃなかったんだ。なんか自信なくして、息切れしちゃったんだよね」
昨日のことのように、すらすらと思い出せる。小学生だった早苗も、突然机に向かい始めたわたしに、戸惑っていた。すぐ目の前にいるのに、一緒に遊ばなくなったし、わたしは、問題が解けないときはこの世の終わりのような表情をしていた。
「集中できないからさ」
ビールと一緒に飲み込もうとしたけど遅かった。思わず言葉に出ていた。苦い後味だけが残ったとき、タケマルが言った。
「よくケンカした?」
「いや、あの子は素直だったし、それはなかったよ。わたしは、勉強する時間を決めてた。学校から帰ってきて、晩御飯の時間までの三時間。ここしか、集中できる時間はなかったんだ」
タケマルは、目の前に行き止まりが突然現れたように、顔を強張らせた。
「最低な人間だよ、わたし。早苗の部屋でもあったのに。晩御飯までの時間は一人にしてって言って、部屋から追い出してたんだ。もう、機械みたいに正確なサイクルだった。当たり前だけど、帰ってきたら、必ず早苗がいるんだ。で、部屋から追い出して、後に用事を残したくないからまずお風呂に入る。パジャマに着替えたら、三時間ぶっ通しで勉強。晩御飯に呼ばれたら、一階に下りる。超速で食べたら、あとは寝るだけ。その繰り返し」
一気に言ってしまった。わたしが息を整えていると、タケマルは三者面談でもしているみたいに、何もない空間を見つめながら言った。
「その、早苗ちゃんは、晩御飯のときはちゃんと帰ってきてたのか?」
「帰ってきてたよ。受験までの一年間は、ずっとその繰り返しだった。一人だから、やりたい放題だし、スマホで頭をコツコツ叩く癖も、その頃はガチ勉強中に分度器でやってたんだ」
「だから、二部屋にこだわってたのか。ストイックな性格だと思ってたけど、誰かに言われてそうしたわけじゃないんだろ?」
「完全に、自分の意志だね。言いなりになってたら、今ごろ畑を耕してるよ」
時計を見たタケマルは、目を丸くした。
「四時だ」
「タケマル、高校のときはどうしてたの?」
返事の代わりに、わたしの膝裏に片方の手を滑り込ませたタケマルは、片方の手を背中の辺りに回した。こうなったら、抵抗する術はない。ひょいと持ち上げられて、飼い猫のようにベッドの上に下ろされた。
「それは、明日話す。とりあえず寝ろ」
「腰は大丈夫?」
「あと十年は持つんじゃねーか」
タケマルは笑うと、ジャージのポケットから煙草を取り出して、一本をくわえた。ベランダの扉を開けて、スリッパに足を突っ込みながら言った。
「高校時代は、今みたいに人を持ち上げてたよ。頭は支えないから、逆さづりだ。そしたら不思議なもんで、誰のもんでもない財布が、勝手に床に落ちてくるんだ」
猫背で煙草に火をつける後ろ姿を見ていると、弱い者いじめをする最悪な部類の不良だったころのタケマルが頭に浮かぶ。そのイメージは大事にしたい。お互い同類の最低な人間だと分かっているから、安心して一緒にいられる。
でも、わたしがどんな人間かは置いといて、荷物は取りに行くべきだ。
実家までの道のりは、百六十キロ。よくもこれだけ離れたものだと、距離を見たときは驚いた。でも、車だと、二時間の距離でしかなかった。昼前に、会社のロゴが入ったライトエースを路地に寄せたタケマルが、窓を見上げながら手を振った。わたしは、段ボールとガムテープを荷室に積み込んで、助手席に座った。
「いいの?」
「社長には言ってある」
今日は日曜日なのに、本当だろうか。ついに無精ひげが剃り落とされたタケマルは、自分の手足のようにライトエースを操りながら、高速道路に乗った。外の景色の流れる速さに、少し怖くなった。車を持っていないから、ドライブをするのは初めてだ。行程の半分以上を過ぎたところで、タケマルが言った。
「助手席にナオがいるのは、変な感じだ。いつも、汗かきの清水が座ってるから」
わたしが思わず腰を浮かせると、タケマルは笑った。
「毎朝掃除してるから、大丈夫だよ」
AMラジオから流れるしわくちゃの声に耳を傾けていると、タケマルが言った。
「自分の車、欲しいな。目標できたわ、今」
「これ、もっと古くなったら買い取りなよ」
わたしが言うと、タケマルは笑った。
「気に入った?」
「あまり車とか乗らないから、分かんないけど。広々としてて、いいよ」
部屋の半分を占めていた、誰のものでもない箪笥。当時のわたしなら、わたしと早苗が自由に使える面積を計算できたに違いない。それをできるぐらいの、心の余裕があればよかった。懇願するように部屋から追い出すんじゃなくて。早苗は、母がテレビを見ている居間や、本だらけの書斎には、近づこうとしなかった。早苗のお気に入りの場所は、あくまで二段ベッドの上段で、追い出すようになるまでは、そこから勉強しているわたしを見下ろしていた。
「早苗は、頭が良かったんだ」
「ガリ勉姉妹だったのか」
タケマルは猛スピードでトラックを追い越すと、笑った。
「なんだろう。機転が利くっていうか。算数だと、ゴリ押しで正解する方法と、できたらこの法則に気づいて、こうして解いてほしいっていう、理想の方法があるんだけど。早苗は、理想の方法を見つけるのが速かった。受験が本格的になるまでは、早苗の勉強はわたしが教えてたの」
言えば言うほど、自分が鮮明に記憶しているということを思い知らされる。タケマルも、わたしがこんなに早口で話す人だとは、思っていなかっただろう。