Freefall
『わたしのものなんて、何か残ってるっけ?』
返事は、また一瞬で返ってきた。
『知らない。鍵開けてあるから』
一日中テレビを見ていた母と、緑色のトラクターで畑を行ったり来たりしていた父。二人とも、自分だけが座れる『居場所』を、雑然とした家の中に用意していた。居間や廊下にわたし達が入り込める隙はなく、父は『家が狭くなってきたな』が口癖で、その言葉は大人サイズになったわたしと、いずれそうなる早苗に向けられていた。反抗期を迎える代わりに、中学校時代、わたしは勉強漬けだった。少し時間はかかっても、いい高校に入るのが人生の抜け道だと思っていた。自分の頭の回転の速さに自信があったし、これでも昔は、真面目な性格だったのだ。それが今は、体にできる限り有害なものを仕込んでは、吐いて、化粧で隠しての繰り返し。でも結局、真面目に不真面目をやっているだけで、根っこは変わっていないということを、時々思い知らされる。スマートフォンを手に取って、端で頭をコツコツ叩いていると、タケマルが言った。
「大丈夫か?」
「いってきまーす」
タケマルを遮るように言って、わたしは姿見で全身を確認すると、同棲して一年になるアパートを飛び出した。駅までの道はにぎやかで、塾に向かう子供や、習い事の帰りの子供がいる。すれ違ったり、一緒に歩いたり。話し声が耳に入ることもある。早苗は、高二に上がる年だ。あの部屋でわたしと同じように、勉強をしたのだろうか。少なくとも、部屋に自分しかいなかったんだから、自由は利いたはずだ。
バーのカウンター裏は狭い。いつも一緒に入っているアラレさんは、空手チョップで瓶を粉々にできる大男で、料理と賑やかし担当のわたしに対して、客が一線を越えないよう見張っている。
「嫌なことがあった?」
何も言ってないのに、超能力者のような一言。わたしが思わず笑い出すと、首を横に振った。
「ごまかそうとしても、分かるよ」
何も負い目のない他人だからだろうか。わたしは、アラレさんに結構家の話をしている。タケマルには言えないことまで。
「なんか、SNSって怖いですよね」
わたしが言うと、アラレさんは身に覚えが百個はあるように、苦笑いを浮かべた。
「なんだよ、やましいことしてんの?」
わたしはエプロンを巻きながら、首を横に振った。
「してないですけど、生きてたら色々、積み重なってくるじゃないですか。アラレさんだって、昔よく知っていたけど、会わなくなった人から久々に連絡来たら、怖くないですか?」
早苗って言う代わりに、随分、言葉数を稼いで遠回りをした。アラレさんはしばらく宙を仰いでいたけど、ぴったりの例を思い出したように、眉をひょいと上げた。
「高校時代の同級生から、急に連絡が来たことはあるよ。当時から、割と可愛い子だった。プチ同窓会みたいな感じで、飲みに行ったな」
「そういう、いい再会もあるんですね」
わたしが上目遣いで覗き込むように見ると、アラレさんはまた苦笑いを浮かべた。
「いい感じになって、家についてったら、居間にホワイトボードがあった」
「ホワイトボード?」
「マルチ商法の説明用だよ。即、逃げたわ」
アラレさんは、何も否定しない。わたしが『怖い』と感じたことは、どれだけ言葉を紡いでも『怖い』ままだ。だから、ついつい話し過ぎてしまう。顔を見合わせてひとしきり笑った後、常連の鴨井さんが入ってきて、わたし達は表情を切り替えた。
午前三時。ドアを閉めるときに手が滑って音が鳴ったけど、タケマルは起きなかった。できるだけ静かにシャワーを浴びて、部屋を薄暗くして最弱の風でブローする間も、寝室からいびきが聞こえてくるだけだった。二つ部屋がある物件にこだわったとき、タケマルは『なんでだよー』を連発して、納得いかない様子だった。家賃は割高になるけど、わたしはどうしても、自分が一人になれるスペースが必要だと思っていた。狭い実家で育ったから、その反動なのは間違いない。常に何かの音がしている、うるさくてたまらない環境。学校にいても追い出されるし、家には一人になれる場所がなかった。早苗の『おねーちゃん、また勉強するの?』という無邪気な声。文字だと、その口調は伝わらない。でも頭の中では、中学校に上がった頃の早苗の声で再生される。深夜番組を音無しで見ているときみたいだ。
『実家、潰すんだって』
声で聞いたら、一体どんな感じなんだろう。
「起きてんのか?」
タケマルが冷蔵庫までの短い道のりを『ビール往復』して、隣に座った。
「なんかあったのか?」
「実家から連絡が来たんだ」
「見つかったみたいな言い方だな」
ビールはわたしの分もあった。わたしはタケマルと乾杯して、一口飲んだ。店で飲むお酒とは違って、ちゃんと味がした。
「見つかったみたいなもんだよ」
「おれが育った家は、後から分かったんだけど、家じゃなかった」
タケマルはテレビをつけると、音を限界まで下げた。一瞬だけ聞こえたガヤの笑い声がすっと遠くなり、わたしはフラッシュを焚かれたみたいに光を跳ね返すタケマルの横顔を見た。
「家じゃなかったの?」
「工場の事務所だった。おれは好きだったけどね」
「わたしの家は、人が四人住むことを想定してない家だったわ。物ばっかり並んでてさ。書斎は、先祖代々買い置きした本の倉庫だし、台所にはプラケースが積まれてるし、なんだろ。ごみ屋敷みたいな」
タケマルにこんな話をするのは、初めてだった。どうしても、アラレさんに話してきたように、笑い話にはできない。
「二段ベッドがあって、勉強机が一つあって、先祖代々伝わる箪笥が、窓を半分塞ぐみたいな形で置いてあった」
「箪笥がなけりゃ、広く感じたんじゃない?」
「そうだよね。しかも、わたし達のじゃなくて、おばあちゃんのやつだったんだよ」
タケマルは缶ビールの中身を振りながら、首を傾げた。
「わたし達って、誰?」
「妹だよ」
「へえ」
そう、タケマルはわたしの家のことを、何も知らない。わたしも、早苗のことをよく知っているとは言えない。
「早苗ってんだけど、どんな子なのか分かる前に、わたしが家を出ちゃったから」
「何歳離れてんの?」
「五歳。今年、十七かな?」
「えーっと、そうか。十八で家出たつってたよな。てことは、最後に会ったときは、その子は中一?」
「そうだね。それが四年ぶりに、連絡してきたんだ。実家を潰すんだって」
ぽんぽんと続いてきた会話が、そこで止まった。タケマルはビールを一口飲むと、顔をしかめた。
「荷物、取りに行かないとな。それか、送ってもらうか」
「そんなことしたら、わたしがここに住んでるってことが分かるじゃない」
「それすら、嫌なのか?」
「うーん、むしろそれが嫌だね」
わたしは口角を上げて笑顔を作った。『それ以上は聞かないで』という意味で、共通の言語だったはずだけど、タケマルは止まらなかった。
「直感だけど。ナオ、ガリ勉だったろ?」
その言葉を聞いて、視界が薄暗くなった。端っこにもやがかかったみたいに、黒っぽい影ができる。わたしはうなずいた。
「想像もつかないぐらいね。勉強には自信があったよ」
「賢い人ってのは、シャーペンの持ち方とか、紙を押さえるときの手で分かるよ」