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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Freefall

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 ネイルが乾かない。子供相手にバイバイをするみたいに開いた両手を見つめていると、後ろからタケマルが息を吹きかけた。思わず手を丸めると、咳ばらいをして、離れていく足音になった。二年ぐらい付き合っている。竹丸水産と書かれたTシャツをよく着ているから、本名とは関係なく、タケマルと呼んでいる。本人は気にもしていないし、返事もしてくれる。
 足音が戻ってきて、咳ばらいを挟んで、横に並んでタケマルになった。無精ひげに包まれた横顔を見慣れすぎて、最初にクラブで出会ったときの精悍さが恋しくなる。ちょうど日付が変わった辺りだった。わたしが腕で払いそうになった缶ビールをひょいと止めて、タケマルは溢れた中身を口で受けてそのまま一気に飲み干した。一緒に来ていた未希と万由里が歓声を上げて、ワンテンポ遅れてわたしもそれに付き合った。絶対に未希を狙っていると思っていたら、一週間ぐらいのメッセージのやりとりで、それがわたしだったということが分かった。剃ったら、元の顔が出てくるんだろうか。わたしがその横顔に息を吹きかけると、タケマルは笑った。
「なんだよ」
「ヒゲ剃ってよ」
「おれ、表に出る予定ないし。ナオはいーよな。ヒゲとか生えねーしな」
 タケマルは出不精だ。わたしも人のことは言えない。共通する問題点。それはお金。二十二年の人生において、気軽に使える存在になった試しがない。それは二歳上のタケマルも同じらしい。
「なんかテレビやってねーの?」
 その言葉が向いているのは、わたしじゃない。多分、タケマルはリモコンと話している。音無しで光るテレビの音量が上がっていき、せっかく乾きかけている爪が震える。
 夕方六時。事務で入っている会社は休みの日。バーテンの仕事だけは、深夜二時まで関係なく続く。社員に昇格したタケマルが、何よりの救い。下請けの下請けに入る日雇いというポジションから、下請けの下請けの社員になった。今日の明休だって、シフトで決まっている休みだから、何も心配いらない。タケマルの収入が安定するなら、わたしはバーテンだけに絞っても大丈夫かと思って、そのことを話したら、猛反対された。理由は、一緒にいられる時間が少ないから。昼の仕事だけに絞るのなら、それは構わないらしい。無精ひげに覆われているけど、タケマルが採算を度外視したロマンチストなのは、疑いようがない。わたしと言えば、お金のことだけを考えていた。五時間酔っ払いに『うん』とか『へえ』と相槌を打っているだけで、昼の仕事と同じか、上回るお金が入ってくるんだから。最近のマイブームは『えーしらない』。これを言ったら、相手はわたしが全てを『知る』まで、延々と話し続けるし、わたしはその間、別の世界に飛べる。タケマルのことを考えているときもあれば、そうじゃないときも。
「ろくなニュースやってねーな」
 タケマルはそう言いながら、わたしがアップにした後ろ髪にポンと触れた。後ろから何かが来るのは、嫌いだ。それが息であっても、手であっても。肩がひょいと上がって、誰から見ても、怯えているのが丸わかりになる。
「いいニュースやっても、人は見ないじゃん」
「悪いニュースばっか選んでんのか」
 タケマルはリモコンで立膝をぽんぽん叩きながら言った。わたしはネイル越しにテレビの画面を見つめた。
「誰それが、昇進して彼女ができましたとかさ。どうでもいいし。でも、誰それが、昇進して彼女ができたけど死にました、ならニュースになるよ」
 わたしが言うと、タケマルは顔をしかめた。五分振りぐらいに、目が合った。わたしが冷静な言葉を放つと、いつもこの目線。まるで、怪物でも見るみたいだ。派手で軽い雰囲気のわたしから、そんな言葉が出るのは、意外だろうか。見た目で判断するなら、頭の中にクッション材が詰め込まれていると思われても、仕方がないかもしれない。
「人は悪いニュースを見たがるってことか」
 タケマルは、語尾を上げない。質問かどうかが分からないから、わたしはテレビに向かって言った。
「見たいんじゃなくて、見ずにいられないんだよ」
 怪物の時間は続く。わたしから過去に向かって伸びる、何本もの糸。手繰っても千切れた先が見えるだけだけど、こういうときは、少しだけ何かが引っかかって、ついてくるときがある。実家の、スニーカーの上にスニーカーが積まれた玄関。少しの風で大合唱する、すりガラスの窓。錆びついた臭突。そういう単純な表現に抑え込めるようになっただけで、自分が大人になったと実感する。
 最近よくテレビで流れる、田舎の家の特集。タケマルはそういうのが好きらしくて、珍しい動物を観察するみたいに、いつも食い入るように見ている。工業地帯で煤煙を離乳食代わりに育った男だから、対照的なものを好むのかもしれない。でも、わたしからすれば、自分の過去に直結しているから、見るのは正直つらいものがある。放っておけば一生習うことのない漢字で構成された村の名前。渡壁という変わった苗字。皆、最初は『わたかべ』と読む。実際には『とかべ』が正しい。祖父の趣味をそのまま引き継いで、人間が四人住むことを想定していなかった、狭くてボロい実家。しっかりと足を伸ばして座れる家じゃなかった。妹の早苗が小さい頃は、まだよかった。
「おれは、いいニュースも好きなんだけどな」
 タケマルの言葉に、指先の動きだけで返事をする。『そうかしら』の意味だったけど、伝わっただろうか。そう、早苗が小さかったころは、まだ身動きが取れた。わたしとは五歳離れている。高校受験のシーズンが始まりそうになっていたころ、十歳になった早苗は急に大きくなって、何をしても視界を遮るようになり、わたしの居場所は半分に圧縮された。そんな早苗は、今は十七歳。
 高校を出るのと同時に家を出て、渡壁という名前を持つ人間とは、誰とも連絡は取っていない。タケマルと結婚でもすれば、わたしの苗字は変わって、痕跡はなくなる。
「人の話、聞かねーよな」
 タケマルの呆れた笑いと、缶ビールの蓋を開ける音。さっき立ち上がったのは、冷蔵庫にビールを取りに行ったんだな。わたしはテーブルの上に置かれた鏡に向かって、目をぱちぱちと瞬きさせた。話は確かに、あまり耳に入っていない。それは、普段はずっと何かを頭の中で再生していて、話しかけられるたびに一時停止ボタンを押しているから。
「なんの話だっけ?」
「いいニュースの話」
 わたしのスマートフォンは、今はロックがかかっていて画面は真っ暗だ。でも、一昨日届いたメールは、わたしが渡壁家の人間だということを思い出させるのに、十分だった。電話なら、出なければ済む。でも、メールは開かないわけにもいかない。SNSは、アドレス帳から辿れるどんな細い糸でも、見逃すことはない。ちょっとだけかじって放置していたSNSのアカウントに、久々にメッセージが届いたという通知メール。
『お姉ちゃんだよね? 渡壁早苗です』
 しばらく考えてから、自分が渡壁奈央であることを白状した。待ち構えていたように、返事が来た。
『実家、潰すんだって。要るものあるなら、取っといてほしいって』
 すでに眠っていたタケマルを一旦起こして、一緒に眠ろうとしたけど、無理だった。六時間ぐらいかかって送った返事は、短かった。
作品名:Freefall 作家名:オオサカタロウ