「つかさ」と「つばさ」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
中江つかさ
世の中には、日本を含め、名前を見ただけでは男なのか女なのか分からない人がいる。
たとえば、「かおる」という名前である。普通は女性を思い浮かべるが、中には男性もいる。薫と書く男性俳優だっている。そう思うと世の中実に面白いものだ。
特に同じ名前で付き合っていたりすると、
「結婚したら、二人は同じ名前になっちゃうんだよな」
という老婆心を働かせる人は多いことだろう。
特に全国的に多い名前をつけている人には、その可能性が高い。同じ苗字の人が付き合うよりも可能性としては相当低いが、まったくないわけではない。そう思うと、本当に結婚すればどうなるのか、考えただけでも面白い。
ただ、実際には結婚して夫婦が同姓同名になってしまうという問題は残っています。
日本という国では、結婚すれば、
「婚姻中の夫婦は、夫か妻のどちらかの苗字を名乗らなければならない」
と、民法の規定にあり、例外は認められていないとのこと。
つまりは、夫婦別姓というものが認められていないということになり、同姓同名の夫婦が一つ屋根の下に存在するということになってしまいます。
郵便物などのそれぞれのプレイべーとは守られるのでしょうか?
名前が同じなので、送られてきた郵便がどちらのものなのかが分かりません。友人知人であれば、どちらかを指定してくれるでしょうが、まったく知らない相手で、しかも行政や保険会社などから送られてきた郵便に、しかも、
「親展」
として、本人指定で送られてきた場合が大きな問題になってきます。
親展なのだから、本人以外が開けてはいけない。これは夫婦間でも同じこと。夫婦の和の亀裂にも繋がりかねません。
また、諸手続きなどもかなり面倒になります。
たとえば保険に加入するのに、本人がどちらなのか、受取人がどちらなのか、審議の問題にもなるでしょう。
また会社に勤めている時の年末調整の書類、事業主では確定申告と、書類を毎年収めなければいけない時に、毎年同じような質問を受けて、さらに審査に時間が掛かったりすれば、当然億劫に感じないわけもないはずだ。
そんな余計な心配をしなければいけないのも、日本という国家の法律が遅れているからだろう。
「夫婦別姓の何が悪い」
という意見もあるだろうし、
「こういうややこしくて、厄介な問題を抱える場合は止む負えない場合として、特例を設けるくらいしてもいいじゃないか」
という意見もあるだろう。
少なくとも後者くらいはあってしかるべきだろう。そうでもなければ、それこそ日本は先進国どころか、後進国と言われても仕方がない。
日本が後進国だと思うのは、外人が多いのもその理由である。
「最近はどこに行っても、わけの分からない言葉を話している連中ばっかりだ」
と思っている人も多いだろう。
それこそわけの分からない民族が訳が分からずに日本にやってきて、我が物顔をしている。
それに便乗するかのように、九州の玄関口であるどこかの県庁所在地では、
「国際都市」
などと市長がほざいているのだから、おへそで茶を沸かすというものだ。
日本人よりも外人を大事にするなんて、とんでもないことだ。そう思っているのは作者だけではないだろう。
余談であったが、とにかく今の国家はどうかしている。
「止む負えない場合は、名を変えることができる」
という規定はあるのに、結婚すれば姓を同一にしなければいけないというのだろう? 実に不思議なことである。
姓はともかく名前というのは、親からもらった大切なものだという意識を持っている人に、
「姓を変えることはできないので、止む負えないから名前の方を変えてください」
と果たして言えるのだろうか?
それができるとすれば、その名前をつけた名付け親だけではないだろうか。
こんな簡単なことも分からない政府は本当に腐敗していると言ってもいいのではないか?
っと、またしても、余談であった。
さて本題に戻ることにしよう。
ある街に、K高校という学校があり、そこに二組の同じ名前の男女がいた。幸いなことに苗字が全員違っているので、前述した同姓同名ということはないので、大きな問題になることはない。
この四人は、元々性格も違えば、普通であれば、接点はほとんどなかっただろう。それぞれお互いと言える相手とは接点があったとしても、四人全員が絡むようなことにはならなかったに違いない。
その四人は、それぞれの性格の違いから、ある意味結びついたと言っても過言ではない。それを偶然と捉えるか、必然と捉えるかというのは難しいところではあるが、それぞれに噛み合っていなかった歯車が噛み合ってくることで、絡んでくることになるのだった。
ただ、その歯車が噛み合うことが本当にいいことなのか悪いことなのか、誰に分かるというのだろう。当事者にもそれぞれの立場があり、考え方がある。一人は、
「俺はよかったと思うよ」
というかも知れないが、
「私にはたまったものではないわ」
と憤慨する人もいるかも知れない。
だから一概に四人が絡んだことがよかったのか悪かったのかという判断はできかねるだろう。
そういう意味でこの物語のエピソードに善悪の感覚はない。所々で善悪を感じることもあるだろうが、それが全体に及ぶということはないだろう。人間の性格の分水嶺は、それほど単純ではないということだ。
ここで登場するふたつの名前は、
「つばさ」
と
「つかさ」
である。
それぞれに、男の子にもいて、女の子にもいる名前だが、一つのクラスにそれぞれ男女が終結したというのも珍しい。
高校一年の入学のクラスがそうだったので、担任となる先生は奇妙な偶然に気付いていただろうが、そのことを敢えて問題にすることはなかった。
他の先生からも別に問題点として出てくることもなく、普通にクラス編成も無事に終わったのだった。
先生のほとんどは分かっていて、
「面倒なことで時間を使うことはしたくない」
ということなかれ主義であろう。
後から問題になるとしても、
「別に今問題にする必要もない」
と考えていたに違いない。
事なかれ主義というよりも、
「今がよければそれでいい」
という考えであり、
「どうせ対して大きな問題など起こりはしないだろう」
という楽観的な考え方が先生の基本であった。
もっとも、名前が同じ男女が同じクラスというだけで、どんな問題が起こるというのか、誰がその予見ができるだろう。そう思うと、今問題視する方が老婆心であり、余計なことでしかないのだ。
まずクラスの中で気になったのは、中江つかさという女の子のことだった。
彼女は品行方正で友達も多く、クラスでは目立つタイプだった。しかし、クラスの中心にいるわけではなく、いつも遠慮深いところがあった。それが彼女を品行方正に見せ、人気者にする要因であろう。
中江つかさ
世の中には、日本を含め、名前を見ただけでは男なのか女なのか分からない人がいる。
たとえば、「かおる」という名前である。普通は女性を思い浮かべるが、中には男性もいる。薫と書く男性俳優だっている。そう思うと世の中実に面白いものだ。
特に同じ名前で付き合っていたりすると、
「結婚したら、二人は同じ名前になっちゃうんだよな」
という老婆心を働かせる人は多いことだろう。
特に全国的に多い名前をつけている人には、その可能性が高い。同じ苗字の人が付き合うよりも可能性としては相当低いが、まったくないわけではない。そう思うと、本当に結婚すればどうなるのか、考えただけでも面白い。
ただ、実際には結婚して夫婦が同姓同名になってしまうという問題は残っています。
日本という国では、結婚すれば、
「婚姻中の夫婦は、夫か妻のどちらかの苗字を名乗らなければならない」
と、民法の規定にあり、例外は認められていないとのこと。
つまりは、夫婦別姓というものが認められていないということになり、同姓同名の夫婦が一つ屋根の下に存在するということになってしまいます。
郵便物などのそれぞれのプレイべーとは守られるのでしょうか?
名前が同じなので、送られてきた郵便がどちらのものなのかが分かりません。友人知人であれば、どちらかを指定してくれるでしょうが、まったく知らない相手で、しかも行政や保険会社などから送られてきた郵便に、しかも、
「親展」
として、本人指定で送られてきた場合が大きな問題になってきます。
親展なのだから、本人以外が開けてはいけない。これは夫婦間でも同じこと。夫婦の和の亀裂にも繋がりかねません。
また、諸手続きなどもかなり面倒になります。
たとえば保険に加入するのに、本人がどちらなのか、受取人がどちらなのか、審議の問題にもなるでしょう。
また会社に勤めている時の年末調整の書類、事業主では確定申告と、書類を毎年収めなければいけない時に、毎年同じような質問を受けて、さらに審査に時間が掛かったりすれば、当然億劫に感じないわけもないはずだ。
そんな余計な心配をしなければいけないのも、日本という国家の法律が遅れているからだろう。
「夫婦別姓の何が悪い」
という意見もあるだろうし、
「こういうややこしくて、厄介な問題を抱える場合は止む負えない場合として、特例を設けるくらいしてもいいじゃないか」
という意見もあるだろう。
少なくとも後者くらいはあってしかるべきだろう。そうでもなければ、それこそ日本は先進国どころか、後進国と言われても仕方がない。
日本が後進国だと思うのは、外人が多いのもその理由である。
「最近はどこに行っても、わけの分からない言葉を話している連中ばっかりだ」
と思っている人も多いだろう。
それこそわけの分からない民族が訳が分からずに日本にやってきて、我が物顔をしている。
それに便乗するかのように、九州の玄関口であるどこかの県庁所在地では、
「国際都市」
などと市長がほざいているのだから、おへそで茶を沸かすというものだ。
日本人よりも外人を大事にするなんて、とんでもないことだ。そう思っているのは作者だけではないだろう。
余談であったが、とにかく今の国家はどうかしている。
「止む負えない場合は、名を変えることができる」
という規定はあるのに、結婚すれば姓を同一にしなければいけないというのだろう? 実に不思議なことである。
姓はともかく名前というのは、親からもらった大切なものだという意識を持っている人に、
「姓を変えることはできないので、止む負えないから名前の方を変えてください」
と果たして言えるのだろうか?
それができるとすれば、その名前をつけた名付け親だけではないだろうか。
こんな簡単なことも分からない政府は本当に腐敗していると言ってもいいのではないか?
っと、またしても、余談であった。
さて本題に戻ることにしよう。
ある街に、K高校という学校があり、そこに二組の同じ名前の男女がいた。幸いなことに苗字が全員違っているので、前述した同姓同名ということはないので、大きな問題になることはない。
この四人は、元々性格も違えば、普通であれば、接点はほとんどなかっただろう。それぞれお互いと言える相手とは接点があったとしても、四人全員が絡むようなことにはならなかったに違いない。
その四人は、それぞれの性格の違いから、ある意味結びついたと言っても過言ではない。それを偶然と捉えるか、必然と捉えるかというのは難しいところではあるが、それぞれに噛み合っていなかった歯車が噛み合ってくることで、絡んでくることになるのだった。
ただ、その歯車が噛み合うことが本当にいいことなのか悪いことなのか、誰に分かるというのだろう。当事者にもそれぞれの立場があり、考え方がある。一人は、
「俺はよかったと思うよ」
というかも知れないが、
「私にはたまったものではないわ」
と憤慨する人もいるかも知れない。
だから一概に四人が絡んだことがよかったのか悪かったのかという判断はできかねるだろう。
そういう意味でこの物語のエピソードに善悪の感覚はない。所々で善悪を感じることもあるだろうが、それが全体に及ぶということはないだろう。人間の性格の分水嶺は、それほど単純ではないということだ。
ここで登場するふたつの名前は、
「つばさ」
と
「つかさ」
である。
それぞれに、男の子にもいて、女の子にもいる名前だが、一つのクラスにそれぞれ男女が終結したというのも珍しい。
高校一年の入学のクラスがそうだったので、担任となる先生は奇妙な偶然に気付いていただろうが、そのことを敢えて問題にすることはなかった。
他の先生からも別に問題点として出てくることもなく、普通にクラス編成も無事に終わったのだった。
先生のほとんどは分かっていて、
「面倒なことで時間を使うことはしたくない」
ということなかれ主義であろう。
後から問題になるとしても、
「別に今問題にする必要もない」
と考えていたに違いない。
事なかれ主義というよりも、
「今がよければそれでいい」
という考えであり、
「どうせ対して大きな問題など起こりはしないだろう」
という楽観的な考え方が先生の基本であった。
もっとも、名前が同じ男女が同じクラスというだけで、どんな問題が起こるというのか、誰がその予見ができるだろう。そう思うと、今問題視する方が老婆心であり、余計なことでしかないのだ。
まずクラスの中で気になったのは、中江つかさという女の子のことだった。
彼女は品行方正で友達も多く、クラスでは目立つタイプだった。しかし、クラスの中心にいるわけではなく、いつも遠慮深いところがあった。それが彼女を品行方正に見せ、人気者にする要因であろう。
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次