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『イザベラ・ポリーニの肖像』 改・補稿版《前編》

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5. ニューヨークへ



 一方その頃、ジョーンズはジョン・F・ケネディ空港に降り立った。
 ヒースロー空港を飛び立ってから約八時間のフライト、その間中明日の会合に備えて頭の中でリハーサルを繰り返していた。
 会合の相手は三人、その三人が一堂に会してもらわなければならないのでスケジュールの調整に一週間を要した、その間に話す内容は決めていたのだが、相手方の出方はわからない、二人が同意してくれてもひとりが乗ってくれなければ『イザベラ・ポリーニの肖像』を世に出すと言う夢を乗せた船は出航できない、失敗は許されないのだ。
 既に時刻は夜の十二時に近い、もう脳みそはクタクタだった、早くシャワーを浴びてベッドにもぐりこみたい。
 タクシーを拾った彼はホテルの名を告げると、座席にもたれてニューヨークの街を眺めた。
 こんな時間になってもまだこの街にとっては宵の口らしく、色とりどりの灯りが通りを照らし、車はひっきりなしに行き交っている。
 ジョーンズを乗せたタクシーが先頭で信号待ちをしていると、交差点を猛スピードで車が横切って行き、けたたましいサイレンを響かせたパトカーがそれを追って行く。
 何度来ても騒がしい街だなと思う、絵画とチェスをこよなく愛する英国人のジョーンズにとってはあまり落ち着かない場所だ。
 だが、この街が世界で最もエネルギーに満ちていることは間違いない、そのエネルギーこそこの計画には必要なのだ、新しいものにワッとばかりに飛びついて流行を生み出し、やがて世界中を巻き込む潮流を作るエネルギーが……。


「今日はわざわざお集まりいただいて恐縮です、『クリスチャンズ』の絵画部門責任者のロバート・ジョーンズと申します」
 翌朝、場所はニューヨーク市立美術館の館長室。
 ジョーンズは昨晩ベッドにもぐりこむとすぐに眠りに落ちた、ナイトキャップも必要なかったほどに……しっかり眠れたので今朝は目覚めも良かった、幸先が良い。
「いや、遠路はるばる、ようこそおいでくださいました、あなたのお話を聞いてから興奮しっぱなしなのですよ」
 最初に口を開いたのは、この部屋の主、館長のデビッド・フォーク、白髪に白い眉と髭、黒縁の眼鏡をかけた恰幅が良い紳士だ、もし白いスーツを着てフライドチキン屋の前に立っていたら人形と間違えられそう……もっとも、黒縁の眼鏡はそれを意識した彼の遊び心なのかもしれないが。
 彼にはあらかじめこの計画を話してある、大いに乗り気になってくれて、他の二人を推薦し、この会合に出席してくれるように声をかけてくれたのだ。
 すると、黒い髪に黒い瞳を持つ、カジュアルだが仕立ての良いジャケットを羽織った大柄な初老の男が戸惑いがちに口を開いた。
「私に声がかかったと言うことは小説でしょうが、絵画と小説の接点がわからないのですよ、映画や戯曲のノベライズなら聞いたことがありますが、絵画のノベライズなど聞いたことがない」
 ジェフリー・マンシーニ、恋愛小説の大家だ。
 彼は恋愛小説に特化し、社会問題などは扱わないので、彼を指して『文学的芸術性に欠ける』と揶揄する向きもある。
 しかし、精緻で美しく、情景が目に浮かぶような描写力は他の追随を許さない。
 手慣れた、手堅い展開を『意外性に欠ける』と酷評する向きもある。
 しかし、愛情が深まって行く様を丁寧に描き出すことにかけては彼の右に出る者はいない。
 社会性の欠如だけを問題視して彼の作品の芸術性にケチをつけるのは正当ではない、他の誰にも書けない物語と世界を彼はペン一本で紡ぎ出すことができるのだから。
 実際彼のファンは多く、新作が出版されれば必ずと言って良いほどベストセラーを記録する。

「私の場合は映画でしょうな、ジェフリーが良い作品を書いてくれるならばそれを映画化することに異存はないが……」
 最後に口を開いたのは映画監督のダレル・ホワイトヘッド。
 姓はホワイトヘッドだが、形良くカールした栗色の髪とそれと調和の取れた深い茶色の瞳、四十代後半と言ったところだろうか、皮のジャケットにジーンズと言う姿だが、引き締まった長身がその服装を引き立たせている、おそらく何を着ても似合ってしまうのだろう、そして穏やかだが朗々とした声が、俳優や撮影クルーを引っ張って行くリーダーシップを感じさせる。
 ホワイトヘッドは耽美的な映像を得意とする映画監督で、何度もジェフリー・マンシーニの作品を映画化している。
 彼の映画にも厳しい批判を投げかける評論家は存在する、『職人芸に過ぎない』と。
 しかし、優れた職人は同時に優れた芸術家と評価されるべきだとジョーンズは考えている。 彼の専門外ではあるが、華麗なアクセサリーや陶磁器は芸術品と呼ぶにふさわしいものだ、それらを作った職人は芸術家としても認識されるべきではないのか?
 彼の専門分野である絵画でも芸術性と言うものは一通りではない。
 ゴッホは自らの内に潜む狂気を荒々しくキャンバスに叩きつけて見る者を圧倒するが、技術と言う点においては稚拙な点があることは否めない、一方、ラトゥールはどうだ? ラトゥールの作品に狂気は存在しない、静謐な世界を独特の黒を基調にした精緻な筆致で構築した画家だ、ゴッホとラトゥール、どちらをより好むとは言えても、どちらが優れた芸術家であったかなどと言うことは誰にも断定できないはずだ。
 そして、ホワイトヘッドの映画も必ずと言って良いほどヒットする、とりわけ女性には年代を問わず熱心なファンが多いのだ、そして、その傾向はマンシーニの小説を映画化した作品に顕著で、マンシーニもホワイトヘッド以外の映画監督に自身の作品を託すことはないことが、二人の信頼関係を物語っている。

「まずはこれをご覧ください、パオロ・ポリーニ氏からお預かりしているものです」
 ジョーンズがテーブルの上に置いた一枚の写真、もちろん『イザベラ・ポリーニの肖像』を撮影したものだ。
「私が写真を撮ることには同意していただけませんでした、プリントもこの一枚しかございません、申し訳ありませんがスキャンやコピーもご遠慮下さい、この画像を複写しないことはポリーニ氏との約束になっておりますので……」

 実は、数日前にジョーンズはもう一度ポリーニ家を訪れている。
『もしかしたらご要望にお応えできるかもしれません』とだけ言って。
 パオロはその計画について説明を求めて来たが、ジョーンズは『まだ形になるかならないかもわかりませんので』と断った。
 その際に『イザベラ・ポリーニの肖像』を撮影させてくれるように頼んだのだが、パオロはそれを断り、代わりに『複製することはお控え願いたい、もしこの画像が世に出ることがあったら、今後クリスチャンズとのお付き合いはないものとお考え下さい』と釘を刺して、写真を一枚だけ差し出したのだ、もちろん返却することは絶対の条件、そしてそれが原本であることを担保するために、そして、もし複製された時にそれとわかるように写真に自身のサインまで入れる念の入れようだった。

「これが『幻の名画』ですか……なるほど、その贈り名に相応しい、いや、それ以上の作品ですな」
 フォークはその写真を手に取ってしばらく見つめ、唸るように言った。