リピート
――宏美――
平成十六年八月――
シングルマザーの私は毎日子育てとアルバイトで大変な日々を送った。厚木のハイツで娘の凛と暮らしているが、凛ももう、六歳になろうとしている。
幼稚園の時間だけのアルバイトだと、収入が足りないから、夜八時に凛を寝かせたあと居酒屋でアルバイトをする日もあった。深夜二時頃に帰ってくると凛が「お母さん。お母さん」と泣いているときがある。この時間はお母さん仕事でいないから、そう言ってもやはり子供は寂しいのだ。
お金を工面して結婚紹介所に登録した。そもそもシングルマザー六歳の子持ちという条件の中で私と会ってくれる人などほとんどいない。
たまに会ってくれても凛を一目見ると、離れてしまう。この日の日曜日も私は日比谷のカフェで結婚相談所を通して紹介された男性と会う約束をしていた。私は男性と会う。
「あなたが信川さん?」
「はい、星合さんですね。星合宏美さん。宜しくお願いします。」
私たちはしばらくたわいのない話をした。
「シングルマザー、大変ですね」
「はい。夜は居酒屋でバイトをしています。とても正社員じゃ子育てとの両立ができなくて」「それは本当に大変だと思いますよ。いつまでもそんな生活を続けていちゃあ」
私は彼の優しい言葉に自分の温かい未来を期待する。
「あなたのような男性がいてくれたら……」
「私シングルマザーとか子持ちなんて気にしませんよ。愛があればそんなこと……私の親戚でも里親とかいますよ。でもちゃんと育ってる」
「ええ」
「二人の子供だってできるだろうし、父親が違っていても、兄弟姉妹としてやっていけるでしょう。それで、娘の凛ちゃんは、凛ちゃんはどこにいるんですか?」
「凛、今すぐそばにいるの。呼んできていいかしら?」
「是非とも」
私はモールの入り口で待たせていた凛を呼ぶ。そして、信川さんの前で凛を紹介する。
「この子が娘の凛です。凛、挨拶しなさい」
凛を見た信川さんの顔が明らかに曇っていくのが分かる。
「あの、凛ちゃんてハーフ?えっ?じゃあ、外人との子?」
「まあ、そうなんですが……」
「ええ……じゃあ……つまり、あーそうですか。ええ、ちょっと私もびっくりで……そうですか」
そしてしばらく三人で話をしたが、明らかに先ほどの良いムードでないのが分かる。その後信川さんとはさよならをし、また会えますかと聴くと、また信川さんの方からメールを送ると言って私たちから離れていった。
一週間が経った。二週間が経った。一ヶ月経っても信川さんからメールが来ない。いつもこうだ。凛を一目見た男性はみんな、話が違うといった感じで、私から離れてしまう。
この子が、このハーフである娘がいるから、私は幸せになれない。この子さえいなければ、私は幸せになるの?
「お母さん。お腹すいたー」
凛が私に言った。睡眠不足のせいもあり、何かそんな娘が心底憎らしく思えた。この子さえいなければ……この子さえいなければ……私は台所にあった包丁を持った。そして凛の方に歩み寄る。
「そうだ。あんたさえいなければ……」
凛がしばらく声も出せず怯えながら後ずさりする。そして涙が出ると同時に「お母さんが……お母さんが……あー」やっと凛が声を出す。
「あんたさえ死ねば……あんたさえ死ねば……」
「お母さん。あー、本当に私を殺すの?」凛は泣きじゃくりながら言う。
「お母さん。私を殺さないで」
「お母さん。私を殺さないで。あーお母さんが……」ワンワン泣きじゃくる。私は包丁をテーブルに置いて、ハッとした。私何してるんだろう、そう思った。凛にこんなこと、どうかしてる。
「凛……冗談よ……お母さんがまさかそんなこと……」
そう言ったものの、もうさっきの言動は取り消せない。凛はワンワン泣く。凛はずっとワンワン泣く。ずっとワンワン泣く。
次の日私は電話で翼を呼び出し、介護の仕事を紹介してほしい旨を伝え、新宿で待ち合わせをした。そして翼に相談した。
「経験もなしに月収四十万以上の高収入?」
「うーん。うちの凛も小学校になるし、学童に預けられるから、やっと正社員で働けるんだけど、介護の仕事で四十万以上の仕事ない?」
「うーん。ケアマネでも二十三万から二十八万くらい、看護師で二十五万から、三十五万くらい、四十万ていったらよっぽど高いところの施設長しかない」
「施設長?施設長になるための資格ってあるの?」
「施設長はケアマネや看護師と違って、これといった資格はない。介護福祉士しか持っていない施設長もいるし、ヘルパー二級だけの施設長もいるらしいわね」
「ヘルパー二級って市役所でも取れるんでしょ?」
「うん。抽選で通れば、無料で資格が取れたり、介護施設で資格取得斡旋しているところもある」
「ヘルパー二級が無料で取れるの?」
「うん。でも施設長を目指すんだったら、ちゃんと学校行った方がいいわね。施設長の募集は……みんな経験者ばっかり。あっ、いや、未経験で社会人経験十年なんてのもあるわ」
「その情報あったら見せて」
「うん。今手元にある施設長のそういった募集のチラシは……グループホームの施設長二十八万……」
「ちょっと少ないわね」
「有料老人ホームの施設長三十二万……デイサービスの施設長二十四万……そんなもんかなあ……」
「ねえ、これなんてどう?四十万以上」私がチラシを見つけると翼は、
「あっ、この有料老人ホームの施設長四十万ってとこ、駄目。駄目。やめときなさい。ここ虐待があった施設だから評判悪いらしいわよ。全然改善もされてないし。半年前、利用者が三人立て続けに死んでるの。ブラックよ」
「ブラックでもいい。ここ紹介して!」
「宏美……あなた……」翼は怪訝そうに私を見る。
数ヵ月後私はヘルパー二級を取り終え、その虐待のあった施設も名前が変わり、私はその有料老人ホームでやる気があるということで採用された。
神様、私はこの凛に、我が娘に、決してひもじい思いをさせません。いいお洋服を買ってあげます。習いごと、英語、中国語、ダンス、ボーカルレッスン、何でもやらせてあげます。
本人が乗馬をやりたいと言えば乗馬をやらせ、ゴルフがやりたいと言えばゴルフをやらせます。ボルダリングをやりたいと言えば、ボルダリングをやらせ、アイススケートがやりたいと言えばアイススケートを、子役をやりたいと言えば……子役……そうだ。この子は普通の子より足が長い。顔が小さくてブラウンの髪でハーフだ。きっとしばらくするともっと足も長くなるだろう。この子が子役になったら、売れなくてもいい。見返りなんていらない。
この子にうんと贅沢をさせてあげる。いい環境で育ててみせる。私の話せなかった英語も話せるようにし、決してみじめな思いをさせない。神様誓います。私はこの子に絶対みじめな思いをさせません。