火曜日の幻想譚
47.妻とキッチンと俺の腹
ある日、妻がキッチン上部の吊り戸棚にぶら下がっていた。
「ど、どした?」
驚きも冷めやらぬまま声をかける。
「ん。なんか、気がついたらつい、ね」
妻は、そんな言い訳になっていない言い訳をして夕飯の支度を再開した。
でも、いきなりぶら下がってるなんてちょっと、いや、かなりおかしい。もしかしてこれは、妻からの何らかのサインなんじゃないだろうか。そう考えて色々と記憶を手繰っていくうち、はたと思い当たることがあった。
翌日、妻が出かけている隙に私は工事業者を呼び寄せる。そしてキッチンに、ある大掛かりな細工を施した。
「ただいまー」
帰ってくるなり、妻は目を見張る。キッチンの至る所に、大小さまざまで色とりどりの物体が突き出ているのだ。
「俺と付き合う前、ボルダリングが趣味だったって言ってたろ」
戸棚にぶら下がっていたのは、その頃が懐かしくなったからに違いない。
「さ、やってみなよ」
俺に促されて、妻はゆっくりと近くの石(後に知ったが、ホールドと言うらしい)に手をかける。久々の感触が蘇ったのか、次の瞬間スイスイとキッチンの壁をよじ登り、天井にへばりつく。
「ねえ、あなたもやってみない?」
満面の笑みで天井から俺にも勧めてくる妻。俺は、自分の突き出た腹を眺める。こちらの言いたいことを察した妻は、言葉を重ねた。
「そんなお腹、始めればすぐにへっこむわよ」
こうして俺たちは、暇を見つけてはキッチンの壁にとりつくような生活をするようになった。
だが、台所が使いづらくなったおかげでどうしても外食が多くなってしまう。俺の腹がへこむのは当分先のことになりそうだ。