火曜日の幻想譚
49.死に際の心得
お祖母ちゃんが危篤になって、もういよいよという時のこと。この優しかった祖母を看取ろうと、私たち親族は深夜にも関わらず病院に集まった。
長年連れ添った情ゆえだろうか。祖父は何やかんやと理由をつけ、生命維持装置を外すのを執拗に拒んだ。曰く、死に水を取る用意がまだできていないから。曰く、葬儀の手続きについてもう少し考えさせてくれ。曰く、三男の家族がまだ来ていないから。万事こんな調子だった。
そうやって祖父が慌てふためいている間、ずっとお祖母ちゃんは苦しんでいた。
数時間ほど経って、ようやく叔父が到着する。すると、今度は折り合いが悪い父と叔父との間で、一悶着が起こった。苦しんでいるのだから自分を待つ必要などなかった、というのが叔父の言い分。母の死に目にあえなくても良いなぞ親不孝者の言うことだ、というのが父の言い分。そこに祖父や、次男の叔父も加勢する。大の大人の言い争いが怒号に発展し、病院内に響き渡った。叔母さんたちは、ただおろおろするばかり。
その間も祖母は、鼻や口に管を付けられて苦しみ続けていた。
この時の遺恨のせいか、葬儀はギスギスした空気の中で催された。お互い目も合わせない夫と子供たちに、あの世のお祖母ちゃんは何を思っただろうか。どうにかこうにかとはいえ、滞りなく葬儀を終えられたのが不思議なくらいだった。
私は祖母の葬儀の後、一人で暮らし始めた。祖母の死に際と葬儀を目の当たりにして、すっかり彼らに嫌悪感を覚えるようになっていたから。月日が経って自活のめどがついたら、家族の縁も切ろうかとすら考えている。
私は、誰に理があったかということは問題にしていない。ああいう場で、そのようなことを問題にし続けたことに問題がある、と思っている。
私は年齢的に、彼らより先に死ぬ可能性は低いだろう。だが、もしそのようなことになった場合、今際の際に彼らの哲学を拝聴したくはないし、葬儀までそれを引きずって欲しくはないのだ。
誰にも迷惑をかけられずに一人で死ねる事が、今から楽しみでたまらない。