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火曜日の幻想譚

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73.終電での目撃



 中央線、飯田橋駅、午前0時47分。あと2分で、下り方面の最終電車が出る時間。僕は息を切らせながら階段を登り、プラットフォームへと急ぐ。
「おーい、待ってくれー」
階段を降り始める。この階段を降りきれば、電車の乗車口まで数メートル。息が上がる中、大声で叫び、乗務員にしばしの猶予を乞うた。
 乗務員に自分の意図が伝わりさえすれば、僕が乗るまでのほんの短い時間、待ってくれるに違いない。そう思い、気持ちがやや緩んだ僕の心は、閉まる扉と出発の電鈴によりもろくも破られた。
「49分、三鷹方面最終、出発しまぁーす」
無情なアナウンスが、車外にいる僕にも漏れ聞こえてくる。電車はゆっくりと動き出し、先頭車両に乗ろうとした僕のわきから後ろへと進んでいく。
「…………」
思わずぼうぜんとする。絶望的な気持ち、否応もなく感じさせられる無力感。

 別に、この終電を逃したからって、野宿をしなければならないわけではない。カプセルホテルに止まる金もあれば、タクシーを呼んだっていい。絶望的な状況ではない。でも、何でだろう。この妙に尊厳を傷つけられたような心持ちは。
 僕は思わず恨めしそうに、車中の人々を見つめてしまった。仕事などに疲れながらも、どこかホッとした表情の面々。

 その面々の中に一人だけ、厳しい顔をしたひげもじゃのおじさんがいた。
「?」
その表情にどこか見覚えがあって、思わず考え込む。どこかで見たことがある顔だが、どこで見たんだっけ……。

 ややあって、思い出す。そうだ、ギリシア神話の冥府の神だ。
「ハデスさん?」
思わず口に出してみるが、電車はもうはるかかなた。声が本人に届くはずもない。
「でも、ハデスさんは終電、間に合ったんだな」
僕は自分のことのように、彼が終電に間に合ったことがうれしかった。実際、彼がかなりの苦労人なのを知っていたから。

 あの方、くじ引きで冥界の神にさせられたんだよな。そのおかげで、他の神々からも敬遠されちゃうし。あまり評判よくないけど、そんなに悪い神じゃないんだよねぇ。

 ほれた女にどう接していいか分からず、よりにもよってあの弟に相談しちゃうし。その結果、略奪始めちゃってその娘、泣かせちゃうし。何とか嫁にはなってくれたけど、ずっと一緒にはいられないんですよね。今日は、帰ったらいらっしゃるんでしょうか。夫婦水入らずで過ごせるといいですね。
 そういえばハデスさん、兄弟の主神さんや海神さんとはうまくやってますか。面倒な弟たちのおかげで、今もさぞ苦労していらっしゃるでしょう。
 そういえば、義理のお母さんは、実のお姉さんでもあるという関係でしたね。怒るとたいそう怖い方ですが、その後、うまくやれているのでしょうか。爽やかな香りのする方とちょっぴり浮気なんかもしてたようですが、ほどほどにしないと奥さんやお義母さんに叱られちゃいますよ。

 言いたいことが止めどなくあふれ出してくる。数時間は電車がやってこない駅のプラットフォームで、僕は行ってしまった彼のことをずっと思っていた。

 冥府って三鷹のほうにあるんだなっていう、意外な事実に驚きながら。


作品名:火曜日の幻想譚 作家名:六色塔