火曜日の幻想譚
76.精霊の声
午後の授業が終わり、一千華(いちか)は下校のために昇降口へと赴いた。上履きから靴に履き替えようとして、自分のラベルが貼られた下駄箱を見上げる。
(またか……)
靴が汚泥にまみれていた。廊下を横目で見ると、片目だけを出した顔が二つほど、柱からのぞいている。ため息をついた一千華は、泥まみれの靴を手に取り躊躇せず足を突っ込む。そして、スマホにイヤホンを突き刺し、それを耳につけて足早に立ち去った。
一千華にこう言った不幸が訪れるようになったのは、一年の夏休み明けの頃からだった。体操着や制服、靴などが汚されていたり、トイレで上から水をかけられたり……。
だが、一千華にはこういう身の上になった理由も、犯人も見当がついていた。理由は恐らくだが、グループに属さないこと。女子というものは、どうしてもどこかの派閥に居ないといけないものらしい。しかし、一千華はそういうものをうっとうしく思う人間だった。
だが、一千華のような一匹狼を嫌う人間もまた存在している。桜子という同じクラスの女子が、そのように思う人間の筆頭だった。彼女は子分格の女子二人に命令し、先述のような仕打ちを一千華にしてくるのである。
とはいえ、桜子の側もそろそろ痺れを切らしてきていた。もう2年生の二学期も終わる、こんな生活を1年以上も続けているのだ。それなのに、何をしても一千華のやつ、動じることなくひょうひょうとしている。
一千華はまっすぐ家に帰らず、泥だらけの靴で近所の小山へと歩を進めた。その頂上付近の大木まで来て、足を止める。
「今日も来たよ」
一千華は大木にそう声をかけ、太い幹に手を触れる。そして、スマホに突っ込んでいたイヤホンを引き抜き、ちょうど腰ぐらいの高さの節に差し込んだ。それから、大木に寄りかかって座り、目をつむる。
こうするのが、一千華の日課だった。もちろん、木の節にイヤホンを刺し込んで音が聞こえるはずはない。でもこうしていると、大木の息吹や息遣いが聞こえるような気がして安らいでいく。学校でどんなつらい仕打ちを受けても、ここでこうしていれば浄化されていく気がするのだ。
「こんなとこに、いたんだね」
気がつくと、桜子と子分二人が傍らに立っていた。恐らく、後をつけてきたのだろう。
桜子は、声に気づいた一千華の顔にいきなり蹴りを入れてきた。もはや、なりふり構っていられない。どこにも属さないめんどうなやつには、痛い目に遭ってもらわねばならないのだ。
「っ!」
一千華は桜子の蹴りをもろに顔面に受け、吹っ飛んだ。イヤホンが耳から離れ、ぶらんと力なくたれ下がる。
「なんだよ、木にイヤホン刺してさ、バッカじゃねぇの」
そう言って桜子は、ふざけてイヤホンを自分の耳に入れる。
「!!!」
その瞬間、イヤホンから一千華にも二人の子分にも十分聞こえるほどの大音量が鳴り響いた。桜子は、その轟音をイヤホンで聴いてしまい、白目をむいてぶっ倒れる。
子分二人は、桜子が人事不省になったので恐れをなしたのか、一目散に逃げ出した。一千華は、慌ててスマホで救急車を呼ぶ。
イヤホンは、もう音を発することはせず、ただただダランと木の節からぶら下がっていただけだった。