火曜日の幻想譚
118.銭湯でのできごと
久しぶりに、銭湯に行きたくなった。
家から歩いて10分のところにあるのだが、湯冷めをしてしまうこともあってあまり行くことはない。だが、たまには広い風呂につかるのもいいだろうと思い、バスタオルや着替えなどを持って家を出た。
道中、特に何もなく件の銭湯にたどり着く。古めかしい店構えは、数年前に訪れたときといささかも変わらない。
「ほい。大人一人」
番台のおばちゃんにお金を払い、脱衣所で服を脱ぐ。別におばちゃんだ、見られていても戸惑いは特にない。というか、おばちゃんはこちらなど見向きもせず、同じ年代の女性客と話し込んでいた。
僕は全裸になり、タオルを持って男風呂をの扉を開く。すると、そこの景色は赤一色だった。
「…………」
しばし、思考が停止する。鋭い刃物でスッパリと切断されたらしい手足や胴体がそこらに散らばっている。風呂のへりに乗っかっている生首が、恨めしそうにこちらをねめつける。それらからドクドクと流れ出す血液が、この場所を赤一色に染めているものの正体だった。
「…………」
どうにか思考が回転を取り戻しても、口に出すべき言葉は見つからない。だが、壁の向こうの女風呂からはワイワイと話し声が聞こえる。どうやらあちらは無事で、こちらの惨状には気付いてないようだ。番台のおばちゃんも、男風呂のほうを見向きもしていなかったところを見ると、この状況に気づいていないのだろう。
ただ血まみれではあるが、この男湯に殺人鬼はいないようだった。恐らく犯人は、風呂に入っていた者を全員、殺したあとで体を洗い、何気ない顔で出ていったのだろう。あのおばちゃんならば、それも容易いはずだ。
「……取りあえず、体、洗わなきゃ」
僕は当初の目的を思い出し、カランの前にイスを持ってきて座る。カランもイスもワインをこぼしたように真っ赤なのは言わずもがなだ。まず、それらをシャワーで洗い流していく。
「…………」
生首の視線が気になって仕方がない。僕はその首のところまで行き、向きを変えようとした。たどり着くまでに血で滑り2度ほどすっ転んだが、何とか目的は達成する。
とりあえず、最低限血を洗い流したカランで頭と体を洗う。血の臭いがぷうんと鼻をつき、吐き気を誘う。そのせいか、いつもよりたっぷりシャンプーを使っている自分に気がついた。
さて、体を洗い終わる。だが、やはり銭湯に来たなら湯船につからねば。僕はまた滑って転びそうになりながら、風呂へと近づき、真っ赤な湯船に体を入れる。その際、手足を切断された胴体を蹴ってしまった。
「あ、すみません」
その胴体を軽くどかすと、ぷかりぷかりとゆらめきながら、向こうへとたゆたっていった。
相変わらず赤しか見えない景色の中、タオルを頭の上に乗せ、湯船につかりながら考える。
「確か、若い娘さんの血で風呂に入った夫人がいたっけ。きっと、こんな気分だったのかもなあ」
ま、こっちはおっさんの血だけどね。そんなふうに思いながら、風呂から上がったらコーヒー牛乳じゃなくて、トマトジュースでも飲もうかなんて考えていた。