火曜日の幻想譚
6.良香さんの和傘
小降りの雨が降り続く、大学からの帰り道のことでした。
『先日から行方不明の4歳女児、未だ消息不明』なんて物騒なニュースをスマホで見ながら、いつも乗り継いでいる電車を降りて、最寄りの駅に降り立ちます。コンコースから改札を抜け、徒歩で数分のアパートまで帰ろうとしたとき、背後から僕を呼び止める声がしました。
「和史くん、和史くーん」
振り返ると、僕が住んでいるアパートの大家さん、良香(よしか)さんでした。彼女が、買い物帰りであろう、ビニール袋と傘を提げてそこにいたのです。
「大学帰り? いつも頑張っとるなぁ。ご褒美にお茶奢ったるわ。おいで」
良香さんはそう言うと、僕の前をすたすたと歩いていきます。
普段おっとりしていてとても優しいのに、こういうときは有無を言わせぬ凄みがある良香さん。若くして夫を亡くし、女手一つで学生が身を寄せる町のアパートを切り盛りできているのは、こういう一面があるからなのでしょう。言われるがままに後をついて行き、彼女の行きつけらしい喫茶店の扉を開きます。ウエイトレスさんに窓際の席を案内され、差し向かいで席につきました。今までは後を付いてきただけでしたが、こうなると嫌でも良香さんの顔を眺めなければなりません。
実を言うと、僕は良香さんに特別な想いを抱いています。ありていに言ってしまうと、良香さんに恋をしているのです。そんな良香さんが、楚々とした着物姿で、こんな至近距離で、微笑みながら僕のほうを見ていると思うと、矢も盾もたまらなくなってくるのです。
「和史くんはちゃんと大学行って偉いなぁ。
アパートの他の子も見習うてほしいわ。
学生元気で留守がええってな」
「あ、ありがとうございます」
普段からお世話になっているのに、こんな状況では目も合わせられません。
そうこうしているうちに、注文が運ばれてきました。良香さんは、紅茶に砂糖を入れようと、僕の側のスティックシュガーを取ろうとします。
「あ、僕取りますよ」
「ええよ、こんぐらい」
身を乗り出し、僕の方に近づいた良香さんから、上品な名前通りの良い香りが漂ってきます。良香さんは匂いをかいでいる僕に気づき、目を細めました。
「気づいたん? これな、お香を炊き込めたんや」
そういって良香さんは、袂を僕の前でひらひらさせます。匂いよりも、そんな無邪気なしぐさを僕に見せてくれる事がとても嬉しく思いました。
でも、飲み物が届いて以降、会話は一向に弾まなくなってしまいました。僕はまずいと思い、必死の思いで良香さんに話題を振りました。
「傘、代えたんですね」
良香さんが、駅からここに来るまで差していた傘。その柄が以前と違っていたことに、僕は気づいていました。そういう、ちょっとした変化にも気がつく男だぞアピールもかねて、この話題を切り出したのです。
「ああ、あれな。これ実は、前と同じ傘なんよ」
「え、そうなんですか」
「和傘ってこともあって前まで紙やったんや。使い辛いから自分で皮に張り替えたんよ」
「へえ、すごいですね」
乾坤一擲の傘トークがどうにか盛り上がり、その後僕と良香さんは喫茶店を出たのでした。
「まだ用事あるから、ここでな」
そういって、良香さんは例の傘を差して去っていきます。そんな後ろ姿もきれいだなあと、見とれていたその瞬間でした。
『未だ解決していない4歳女児の行方不明事件』
『学生元気で留守がいい――アパートに人がいてほしくない』
『着物に香を炊き込めた――「何か」の臭いを消したい』
『紙から皮に、和傘を自らの手で張り替えた』
瞬時に思い浮かんだ4つの情報。それらの点が線になり、一つの映像が僕の脳裏に浮かび上がります。
『アパートの浴室で、刃物を振るって女児の皮を剥ぎ取る良香さん……』
揺らぐ視界。止まぬ怖気。ひどい眩暈。不快さの中で、良香さんがくるりとこちらを振り返ります。
傘から覗く口許が、殺意を帯びて妖しく微笑んだような気が、しました。