火曜日の幻想譚
12.忘却の地
一日、暇ができた。特にしたいこともないので、とあるところを訪れることにした。小さい頃、親父の仕事の都合で3ヶ月だけ住んだ場所。そのごく短期間過ごしていた住まいを、もう一度訪れてみようと思ったんだ。
当日の朝、わくわくした気分で朝食のテーブルにつき、家族にこの企みを明かす。
「面白そうだな、土産話頼むぞ」
と興味を持った親父。
「くだらない。止しなさいよ」
と引き止めるおふくろ。
「そこ、俺が生まれる前に住んでたとこだろ」
と弟はそっけない。
そんな三者三様の反応を尻目に、バイクに跨って目的地へと向かった。
幼少の頃、夏の暑い中引っ越してきて、年明け前に立ち去った団地。そこは、30年近い年季を惜しげもなく外壁にさらけ出し、その場にそびえ立っていた。
「11号棟、11号棟……」
バイクを駐輪場に止め、住んでいた号室のメモを片手に団地内を歩き回る。道の傍らの小さい公園が目に留まる。置かれている数々の遊具を眺めても、何も思い出せない。
目的地である11号棟に辿り着く。棟をぐるりと一周回ってみる。それでも、何の感興も催さない。
俺は本当に、ここに住んでいたのだろうか。短い期間とはいえ、何にも思い出がないわけはないだろう。なぜか、ふいにこみ上げてくる焦燥感。
住んでいたのは204号室だったはず。
俺は失礼を承知で、下から204号室のベランダを見上げた。そこには雑多な洗濯物が干されている中で、一人小さな男の子が体育座りで佇んでいる。恐らく母に叱られたのであろうその子は、ベランダの洗濯物に囲まれてべそをかいていた。
ベランダを見上げていた俺は、思わず男の子と目を合わせる。その時ふと、些細な理由でおふくろに叱られて、しばらくの間俺もあそこのベランダに閉じ込められていたことを鮮明に思い出した。その折檻がここに住んでいる3ヶ月の間だけ頻繁に起こり、引っ越して以降はぴたりと止んだことも。
あれは本当に罰のために、おふくろがベランダに俺を閉じ込めたのだろうか?親父が仕事に出ている間家にいる俺を遠ざけるために、わざと叱ってベランダに閉じ込めたのではないのだろうか? だとしたら俺が閉じ込められていたその間、いったい「何」が行われていたのか?
ここから引っ越した約一年後に、弟は産まれている……。その「何か」の結果が弟だとしたら……、果たして弟の父は……。
思考がぐるぐるとめまぐるしく回転し始める。だがそこから導かれる結論はあまりにも衝撃的で、俺は身動きすることすらも忘れてしまう。
そんな俺を、男の子は204号室のベランダから、うつろな涙目でじっと見つめていた。