火曜日の幻想譚
14.迷惑
「死は『救い』である」、なんて言葉がある。
だがこの言葉は、どう足掻いても逃れ得ない真の絶望に囲まれている状態でのみ光を放つ言葉だ。例えば学生が、明日提出のレポートに手をつけてないなんて状況。そんな状況でこの言葉を揺らぐ事のない真理であるかのように語っても、そこにあるのは失笑だけだと思われるのだ。いわゆる捻くれ者の私でも、その程度の分別は一応持ち合わせてはいるつもりだ。
だがそんな私もついに金策に対して万策尽き果て、今日にでもこの肉体と別れを告げる必要が出てきてしまった。すなわちひんやりした土中での休息を選択するしかない事態となり、先述の『救い』のお世話にならざるを得ない状況になってしまったのである。
数日間飲まず食わずで、まるで自分のものでないような感覚の体を引きずって歩く。そして、駅のプラットホームに重い足を踏み入れる。どうせこの世の生き納めなら、あの鉄の塊と正面からぶつかりあおう。派手に大きく生命の花火を打ち上げ、自らを破壊してしまおう。そういう魂胆だ。
このような事を企てると、どうしても避ける事のできぬ指摘がある。概して言うと、他人様へ迷惑がかかるではないかという点だ。
詳細に言えば、やれ遺族に多額の請求がいく可能性があるだの。やれ電車が長い時間不通になるゆえ、利用者に多大な迷惑がかかるだの。かつて、『私』だった『欠片』を処理しなければならない駅員への迷惑だの。それらの鬱陶しすぎる論理達。こういった論理を振りかざし、『一人で死んでいけ』と強者は吠えるのだ。
確かに、これらの論も一理ある。
だが、私はかつて駅の職員の仕事に就いていたのだ。電車が不通になった鬱憤を、利用者から暴言の形で浴びせかけられたことは数え切れぬほど。『欠片』の処理に従事したことも、一度や二度ではない。それに私がこうして金策に走っているのは、遠縁の男が線路に転落して非業の死を遂げたからだ。言うなれば、私は迷惑を被り続けた側なのだ。
もちろん、それで私の言い分の全てが正当化されるとは思わない。しかしそれでも私は、私の人生に迷惑をかけ続けた電車に喧嘩を売りたいと強く願うのだ。
ぼんやりと宿敵である電車を待ちながら、これまでの人生を思い返す。
「もう少しすりゃ、嫌でも走馬灯は見られるのに」
そう心中で呟き、皮肉な微笑を浮かべる。その瞬間、構内アナウンスが鳴り響いた。
『先ほど、前の駅で人身事故が発生し、現在車両の点検を行っている状況です。
繰り返します。前の駅で人身事故が発生しました。
現在車両の点検を行っております。
お客様には大変ご迷惑をおかけいたします。
復旧にはかなりの時間を要する見通しです……』
「この場に及んで、まだこの私に迷惑をかけるのか」
私は、あまりの出来事に腹を立てた。
「こうなったら何時間だろうと待ち続けてやる。絶対にこの計画を遂行してみせる」
そんな信念を固め、ホームのベンチに座り込む。
だがそうして待っている間に知人から連絡があり、とりあえず金策の目処がついた。色々と迷惑をかけられているが、実はその迷惑にこそ『救い』があるのかもしれない。