短編集63(過去作品)
あの時、何を思ったか、足を開いて、股の間から風景を見た。
日本三景の一つ、天橋立の股覗きなど知らない時だった。偶然だったのだが、どうしてもしてみたかったのは、股の間から覗くと、空と大地との間の隙間が見えるのではないかと思ったからだった。はっきりとは分からなかったが、まともに見るよりも分かったような気がした。
普通の体勢で見ると、空と大地は半分くらいの割合で見えているつもりである。しかし、股覗きをすると、空と大地の割合は、空が八くらいで、大地がニくらいの比率になる。かなり大きな差である。きっと、頭に血が上ってしまうからかも知れないが、それだけではないかも知れない。
夜空の星を見ていると、自分がどれだけ小さな世界に住んでいるのか分かるという人がいるが、現実的な考えを持っているところがあるので、なかなか分からなかった。
だが、天橋立のように股覗きをすると、今まで見えていなかったものが見えてくる。
高校時代、美術部に所属していた本田だったが、その時のことを思い出していた。
美術部に入った動機は不純だった。好きな女の子が所属しているというだけで、美術のよさも分からず、なりゆき同然で入部した。入ってみて愕然としたのは、皆一様に暗いところだった。
会話もほとんどなく、誰が話を始めても、二言三言返す人がいるくらいで会話が成り立たない。下手に返事をすると、その人が浮いてしまって惨めな思いをするだけだ。
「何だ、一体ここは」
あまりにも場違いで、愕然としてしまったのも今から思うと信じられない。
皆、それぞれに自尊心が強く、あまり人に関わりたくない。自分の中にあるものを、他の人に関わることで壊したくないのだ。自分の個性を自分の中だけで暖めておきたい気持ちは分からなくもないが、ここまで固執する必要もないだろう。本田はまわりの人に染まることを恐れた。
だが、考えてみれば、皆と同じだった。誰もが人の影響を受けたくないと思っていて、その理由がしっかりしていた。しかし、本田の場合は、ただ影響を受けたくないというだけで、その理由はしっかりしていない。自分だけが浮いているように思えたのも仕方がないだろう。
現実的な考えを持っている本田だったが、芸術には向いていたのかも知れない。それは持って生まれたものも大いにあるだろうが、それよりも、現実的なことばかりを考えていると、息が詰まってしまうことが影響している。
時々遊び心も持っていないと、精神的に辛い。心の中に余裕を持ちたいと思っていた時に曲がりなりにも芸術に触れたのだ。
彼女が一心不乱にキャンバスに向かっていく姿は、学校内で友達と話している姿からは想像できない。ニコヤカで朗らかなところが素敵だと思っていたが、まわりを意識することなく目の前のキャンバスに向かっている姿にも凛々しさを感じた。
それでいて、どこか癒しを感じさせるのは、時々書いていて、リラックスして見えるからだ。それが心の余裕だということに気付いたのは、自分の作品第一号が出来上がった時だった。
絵や芸術など、まったく自分とは違う世界だと思っていたのだが、自分で想像していたよりもなかなかいい出来具合に仕上がっていた。近くで見るよりも徐々に遠くから見ていく方がリアリティがある。
「現実的な世界を、この俺が作り上げることもできるんだ」
絵というものは、目の前に見えるものをいかに忠実に描きあげるかということで、そこに創造性はないものだと思っていた。実際には自分が作り上げるオリジナルなものなのだから、誰にもまねのできるものではない。しかも、
「もう一度描け」
といわれても、描けるものではないだろう。
それは有名な芸術家でも同じことで、出来上がった作品はどんなものでも、世界に一つしかないものだ。
――これをオリジナルといわずして何という――
本田は、それから芸術にのめりこんでいった。
気持ちに余裕を持つようになると、彼女も本田に興味を持つようになってきた。自分の世界を頑なに守っているかのように見えた彼女から声を掛けられるなど、思いもしなかった。
もっとも、その頃になると、自分の世界が広がっていて、他の人が入り込む余地がなくなっていたかも知れない。
――これだと、最初に美術部に入った時に感じた部員と同じではないか――
我に返ることも必要だった。彼女が声を掛けてくれなければ、そのまま自分の世界を頑なに守り続けるだけの男になってしまっていただろう。
そんなことを考えていると、子供の頃に苛められていたわけが、少しずつ分かってきた気がする。
ついつい現実的なことばかりを考えていると、理屈っぽくなるようで、子供の頃に先生や親から受けた教育も、自分の頭の中で消化できなければ、絶対に従うことのできない性格だった。
「どうして勉強しないといけないのか」
と聞くと、
「偉い大人になれない」
といわれる。
何が偉い大人なのか聞いても納得のいく答えが返ってこない。これでは、勉強する気にはなれなかった。
それからしばらくして、礼の薄幸の女性と話をする機会に恵まれた。
その日も最初の日と同じように、カウンターの隅で呑んでいると、彼女が奥のカウンターでゆっくり呑み始めた。まるでこちらを意識していないような素振りにいつもであればあまり気にしないが、その日は、少しムッとしてしまった。
あまり目立つ顔立ちではないのに、なぜか気になってしまっていた。人の顔を覚えるのはあまり得意ではない本田だったが、彼女の顔は忘れられなかった。これと言った特徴があるわけでもなく、正面からの顔を見たわけではないのに、どうしてだろう。
おそらく、横顔で彼女の表情を想像し、その表情が時間が経つにつれ、自分の中で想像が豊かになり、できあがった表情が、あまりにもピッタリとしていたので、忘れられなかったように思えるのかも知れない。
ずっと顔を合わせないようにしている彼女だが、入ってきた瞬間、完全に目が合ってしまった。目が合ったことで、顔を見ないようにわざわざしているのかも知れない。
彼氏と別れた経緯など、聞きたいことはいろいろあったのだが、聞いてはいけないことだと思い、なかなか話が弾まない。余計に緊張してしまうからだ。
それが分かっているのか、彼女の方から助け舟を出してくれる。
「彼は、交通事故で亡くなったの。あっという間のことだったわ。即死だったらしいんだけど、それがせめてもの幸いだと思うことにしているんです。もし、彼に会っていれば、私は彼にもっと辛い宣告をしたかも知れないんですもの。実は別れを言い出そうかと思っていたんです」
「どうして別れを?」
「私は自分で思っていたよりも臆病なんです。マリッジブルーって言葉、ご存知ですよね?」
「ええ、婚約などしている時に、結婚が迫ってくると、神経質になることでしょう?」
「私はそんなことはないと自分に言い聞かせていたんですが、どうやら、マリッジブルーのようになっていたらしく、その苦しみを分かっていなかったんです。だから、どうして苦しいのか分からずに、それを解消するには、彼と別れるしかないとまで思い込んでしまったんです」
作品名:短編集63(過去作品) 作家名:森本晃次