短編集63(過去作品)
声にはそれほどの魔力がある。男のくせに女のようにナヨナヨしているやつを見ると、さすがの本田も腹が立つ。声に覇気がないというのとはまた違う。覇気がなくとも腹が立つことはない。イライラするにはそれなりの波長があるのだろうが、そいつの声にはイライラを発生させる要素がある。本人にとっては仕方がないことなのだろうが、苛める側にとっても仕方がないことである。
「仕方がない」
で片付けられたらお互いにたまらないのだろうが、どうしようもない。
本田はなるべく無視していた。しかし、声のトーンも次第に変わってくる。声変わりが極端に遅いだけで、いつの間にか大人の声になっていた。それと同時に苛められることもなくなっていったが、彼はそのまま孤立してしまった。苛められる側でも、苛める側でもどちらでもない。その当時としては、実に特異な存在になっていた。
本田にとって、今さら話しかけられる相手ではないが、何となく気になっていた。別に彼は自分の気配を消しているわけではない。存在感は十分に感じられた。それなのに、苛める側にも苛められる側にも属さないでいられることが不思議で仕方がなかった。
彼を見ていると、自分の存在感のなさを痛感した。いじめっ子にも苛められっこにも属していないのは、自分が目立っていないからだということに、その時になって今さらながらに気付かされた。
彼も本田に寄ってくることはなかった。あくまでも自分を誇示しているように見える。その視線は完全に「上から目線」で、それでいていじめっ子は手が出せなかった。誰にも手を出せないオーラが身体から滲み出ている。そんな彼を見ていて、それなりに敬意を表してしまっている自分に本田は気付いていた。
最近、本田は自分がまわりから意識されていないことに気付く。それまでは会社の中枢の管理部で、営業と管理との橋渡しのような仕事をしていて、会社にはなくてはならない人なのだという意識があった。
元々入社時は営業希望だった。研修の時は、物流、管理、営業と一通りの研修を受け、実地も経験した。営業は見習い程度であったが、実際に自分が企画した企画書で営業のサポートをしたものだったが、いつの間にか、会社の業績が悪くなっていった。
会社というよりも業界全体が不穏な空気に包まれ始めて、大手であっても倒産を余儀なくされる会社も出てきて、連鎖倒産が頻発した。
本田の会社も何とか生き残ったのだが、今度は生き残った会社の中で不正が発覚するところが少なからず出てきた。
刑事事件に発展し、業界の存続を危ぶむ声さえ漏れたくらいだが、何とか銀行や自治体の助けもあって生き延びている。いわゆる激動の時代と言えるだろう。
毎日のように不正が新聞紙上を賑わせていたが、それも次第に忘れ去られてくる。時代自体が激動の時代で、一つの業界だけのニュースがそんなに長く残ることはなかった。幸か不幸か、本だの会社はあまり目立たずに生き残ることができた。
それも経営陣がしっかりしていたからだろう。本田も途中から管理部へと呼ばれてその手腕を上司から期待された。
期待されればそれなりの実力を発揮することができた。そのことが本田自身にも多くな自信につながり、何よりも本田を推挙した上司も鼻が高いというものだ。その上司と本田は一蓮托生。いろいろな社内改革を行う中で、タッグを組むことで難題もうまく乗り越え、業績を上げていった。
営業部と管理部というと、どこの会社でも犬猿の仲である。それをうまく纏めることができれば、大きな力になることは誰もが分かっているが、その術を知らない人が多い。会社によって、またその時々によって事情が変わってくるので、当然マニュアルのようなものはなく、すべてが勘と経験に委ねられることになる。
出世街道をまるでエリートのように駆け上がっていった。かといって、会社人間というわけでもなく、入社ちょうど十年目には人並みに結婚して、幸せな私生活を送っていた。
結婚した頃は、会社の景気も少しずつ上向きで、時期的にも最高にいい結婚だった。相手は会社とは関係のない女性で、馴染みのスナックで知り合った女性だった。
そのスナックにはいつも一人で行っていた。付き合いでのみに行く場所とは別の場所を持っておきたかったのは、社会人になってからずっと考えていたことだった。
「隠れ家のようなところ」
仕事に疲れて癒しになれるような空間が絶対に必要だと思ったからだ。
その店は偶然見つけた。会社の帰りにまだ電車の時間があるということで、駅裏を覗いた時、一軒のスナックの明かりがついていた。あまり目立つわけでもなく、紫色だったのはどこか妖艶な雰囲気だった。最初は、
「ぼったくりの店ではないだろうか」
と不安になったが、その日は、とりあえず落ち着きたいという気持ちもあり、もしぼったくりだとしても、自分の見る目がなかったというだけであきらめればいいと思った。
中に入ってみると、落ち着いた雰囲気で、女の子が一人カウンターの中にいた。彼女が未来の奥さんではないのだが、彼女の雰囲気がいい雰囲気でなかったとしたら、二度とその店に顔を出すことはなかっただろう。
表情にはまだあどけなさが残り、水商売をしているようにはどうしても見えなかった。話を聞いてみると、ママさんが母親で、自分の時間が空いている時に手伝っているのだという。
父親に早く先立たれ、貯金と保険で出した店だという。残された二人で守っていこうという話を聞かれた時、目頭が熱くなったのは言うまでもない。
あまり客が多いとはいえない。常連もいるにはいるが、しょっちゅう来ている常連はいないようだ。常連のほとんどが駅前の商店街の店主で、時々商店街の会合もここで行っていたという。
時代の流れには逆らえないのか、昼間の商店街の賑わいに翳りが見え始めていた。日曜日でもシャッターが閉まっていて、いつ空いているのか分からない状態の店があったり、毎日空いてはいるが、開店休業気味の店も少なくはない。
「なかなかうまく行かないね」
サラリーマンの世界も大きな業界の波に飲まれたり、右往左往させられたりするが、自営業の世界は、景気をまともに受けるので、その影響はもろだという。
――サラリーマンでよかったのかな――
と、今までの自分の努力を振り返ることで、つくづくサラリーマンに自分が向いていたことを思い知らされた。
しかし、店の雰囲気は悪くはない。あまり客がいないのは店にとってはありがたくないことではあろうが、客にとっては、ゆっくりとできる。しかも、一人一人の客に対してのフォローが行き届くという意味でも完全にお客市場と言ってもいいだろう。
何度か仕事が終わってくるうちに、すぐに常連の雰囲気になっていた。他の客に出会うこともあまりなく、ほとんどがカウンターの中の二人との話だけだった。
――本当に他に客っていないんじゃないか――
などと、余計な心配をしていた頃、一人の女の子が入ってきた。
コートを脱ぐと赤いセーターが似合う女の子で、しかし、実際には赤い色とは正反対に、物静かな性格の女の子であった。コートを脱ぐ時、張った胸の膨らみにドキッとしたのを覚えている。
作品名:短編集63(過去作品) 作家名:森本晃次