短編集63(過去作品)
自分を自分で嫌なのだから、人が好きになってくれるはずがないという単純な理屈に気付かなかった。
「そりゃ当たり前さ」
後になって笑い話として人と話すと、自分でも恥ずかしさから照れ笑いするしかなかったが、その頃にはすでに彼女がいたのだ。
「やっぱり、気持ちに余裕が持てないと、彼女もできないさ」
気持ちに余裕ができたのは、やはり母親の感情を女性に抱くようになってからであろう。それを話すと、
「確かにそうだな。『飢えてます』なんて顔してたら、誰だって近寄れないさ。誰もそんなやつを相手にしないし、相手にしても自分が損だと思うはずだからね」
そう言って笑われた。
自分で気付いてからだっただろうか、また赤ん坊の声が耳に響くようになった。節目に頭の中で何かに気付いた時、いつも耳鳴りのように赤ん坊の泣き声が聞こえる。それが田端にとっていいことなのか悪いことなのか、自分でも考えあぐねていた。
屋形さんから聞かされた落ち武者の話も、赤ん坊が絡んでいた。
落ち武者がこの村で助けられて、元気になってからの話だったが、村の女性と恋仲になって夫婦になったという。
まわりは、祝福してくれて、ちょうどその頃、それまで不作が続いていた村が、急に五穀豊穣になったという。
「これは落ち武者様と、娘のご利益だ」
と言って、二人を祝福したのだ。
丘の上にある祠にお供え物をずっとしてきた落ち武者の気持ちが、神様に通じたのだろうというのが、村人の一致した意見だった。
それまでは本当に平穏無事で、大いに潤った村で、平和な日々がずっと続くように思われたが、そこは戦国時代、そうは問屋が卸さなかった。
次第に村にも戦の空気が漂ってきて、近くで大きな戦いがあると噂されるようになる。領主からは、
「兵を出せ」
と言われるようになり、落ち武者がその候補に挙げられた。
落ち武者には、当時村の娘と結婚して赤ん坊がいた。落ち武者は兵となって戦ったが、結局負けてしまい、相手から赤ん坊を差し出すように言われたが、相手の手に掛かることを恥じた娘は、赤ん坊と自害したのだ。それがこの滝に飛び込むことだったのだが、それから、この滝の音に混じって、娘と赤ん坊の声が聞こえるという伝説が生まれたという。
娘はその時、
「森を隠すなら、木に隠すものよ」
と言って、滝つぼに飲まれたという。それからこの滝ではなぜか娘と赤ん坊の自殺が多かったと伝えられる。
しかも、この伝説は一部の人間しか知る由もなく、
「飛び込んだ娘たちが知っているはずがない」
という話であった。偶然が重なっただけなのだろうか?
何か見えないものに怯えてやってくる女性たち。その気持ちは何となく分かった。
滝の奥には、彼女たちと赤ん坊の石碑が建てられている。今まで知らなかった田端だが、屋形さんから初めて教えてもらって、見に行ってみようと思ったのだ。
滝つぼを見下ろすその場所に建てられた石碑の最初に、
「森を隠すなら、木の中」
と書かれている。本当であれば、
「木を隠すなら、森の中」
ではないのだろうか? 不思議な気持ちをもったまま見つめていたが、身体の中に何か大切なものを隠そうとする意識が働いているのではないかと感じた。
大切な赤ん坊をその身に抱いて滝つぼに飛び込むのだ。自分は助からなくとも、赤ん坊だけは助かってほしいという思いが隠されているのかも知れない。外敵から身を守ることができなかった女性たちの無念が隠されている。そんな場所へやってきた自分にも何か因縁があるのではないかと感じた田端だった。
その理由はすぐに分かることになる。
そのまま奥に進んでいくと、石碑には女性たちの名前が削られていた。飛び込んだ日になるのであろう。年月と、女性と子供の名前。中には、名前のない赤ん坊もいたのだろう。「赤ちゃん」
としか書かれていない石碑もある。
その中に一人の名前を見つけて田端は愕然とした。
「田中和代。赤ん坊に田端慶次」
と書かれていた。年月は、三年前だった。
三年前、それは、初めて田端がこの山に訪れた時だった。
見つめていると、森が消えていき、木の中に隠れていくのを感じていた……。
( 完 )
作品名:短編集63(過去作品) 作家名:森本晃次