年末年始
6:台風と思慕
「克樹ー! 起っきろー!」
遠くのほうから声がして腹にずん、と何かが圧し掛かる感触。
「ぐぇ」
潰れた蛙のような情けない声を発し、克樹は夢の世界から引き戻される。
「ほぅら、実家帰ってきたからって、寝坊してんじゃないの。せっかく姉ちゃんが帰ってきたって言うのに、出迎えもないなんて失礼だぞ」
熟睡している人にいきなり圧し掛かるのは、失礼ではないのだろうか。
「お、LINE来てんじゃん」
圧し掛かってきた人物━━佳苗は、枕元に転がっていた克樹のスマホを素早く掴み取り、画面を確認する。
「ちょ、やめて」
克樹は慌てて取り戻そうとするが、寝起きで目がしょぼしょぼして、うまいこといかない。佳苗はその間に、昨晩連絡を取った地元の友人とのやり取りを、すっかり目に焼き付けてしまった。
「ねえねえ、年明けどっか行くの? 女の子? ねえ女の子と?」
「水野んち行くだけだよ。返せよ」
「あー、水野くんちかぁ」
期待に沿うメッセージが存在しないことを理解した佳苗は、今度は着信の履歴を調べ始める。
「大崎さんって、会社の同僚? 女子?」
「……上司です」
「女子じゃなくて上司? 相変わらず克樹は面白いなぁ」
「いい加減返して」
大崎さんも、会社の携帯と個人スマホを間違えて連絡してこなければ、ここで話題になることもなかっただろうに。
「ねえ、ちょっとは女の子と仲良くしなよ。恭ちゃんほどじゃなくてもさ」
佳苗は心底つまらなそうな顔で、克樹の顔めがけてひょいとスマホを放り投げる。危ないし安いもんじゃないのだから、もう少し丁寧に扱ってほしい。あと、背中も見えないほど先に居る弟を、引き合いに出してくれるな。
「ご飯できてるから、早く降りてきな」
最後の最後にぎりぎり姉らしい科白を吐きながら、暴れたい放題暴れた台風は部屋を出ていった。
しかし、何故こんな早朝に姉(と恐らく義兄と甥)は実家に帰ってきたのだろうか。姉夫婦の家は車で20分程度の距離なので、味噌汁は冷めてしまうものの風味までは落ちない程度に近い距離ではあるのだが。
克樹は、佳苗の突然の来襲に気が滅入りながらも、手早くスマホを操作し画面ロックの設定をした。スマホを買い換えて数ヶ月、面倒臭がって設定をサボっていたのだが、こうして直接的な被害に直面することで、やっと自身のセキュリティ意識の甘さを痛感し、設定しようという気になったのだ。
設定を終えると、起動時に数字の入力を求められる。さっき設定した値を入力していつもの画面が現れるのを確認し、ひと安心する。
着替えをしながら、思い返してみる。正直、見られたのが姉でまだ良かったのかもしれない。私物のスマホなので、業務上重要な情報などはないに等しいが、ロックの設定をしないまま、落としたり他人に取られたりしたら、恐ろしいことになっていただろう。だが、一人で暮らしていると、どうしても他人に見られるという意識が薄れてしまうのだ。そういう意味では、多少は姉に感謝しても良い気がしないでもない。ただし、礼を言う気は毛頭ないけれど。
着替えを終えた克樹は、再び着信履歴を開き「大崎さん」の文字を見つめる。確かに姉にはこの人は上司と言ったし、その通り克樹の上司である。それは間違っていない。だが、克樹は『男性だ』とは言わなかった。姉は早合点したようだが。
その履歴の文字を見つめながら克樹は、上司の大崎さんのことを想い出す。いつもキリッとした知的なスーツ姿。トレードマークの低めのポニーテール。常に理性的で、時に厳しくて、でもいつもポジティブで。そうかと思えば、自分の個人スマホから部下の個人スマホへ、連絡しちゃうようなかわいいところもあって……。
克樹は、しばらくの間そんな風に大崎さんのことを脳裏で想い描いていた。誤解のないよう述べておくが、克樹は、この美人上司の個人の連絡先を利用して、何らかの行動を起こそうという考えは全くない。気持ち悪いと思われるかもしれないが、憧れの大崎さんが例え一度だけだとしても、私物のスマホから自分の私物のスマホへ連絡をしてきてくれた━━例え、ケアレスミスであっても。それがこの上なく嬉しい、それだけなのだ。
そんな仄かな想いを再び胸にしまい込み、克樹は部屋を出て大晦日の我が家へと降りていった。