年末年始
5:夕食と説教と
「兄ちゃん、いつごろ帰ってきたん?」
階段を先に降りながら、恭治はこちらを振り向いて聞いてくる。
「4時、ちょっと前だったかなあ」
「じゃ、俺帰ってくる少し前だね」
そう言うと、恭治はひょいと最後の数段を飛び降りた。
「お前は、どこ行ってたの?」
取り敢えず相槌感覚で尋ねてみた質問の返答が、飛んだ地雷だった。
「ん? 彼女んち」
そうなのだ。この恭治という弟は、河西家の中でも一番端正な顔立ちをしており、几帳面かつ人当たりも良い。それこそ幼稚園の頃から、女子に言い寄られる人生を歩んできている男なのだ。正直、女性に縁のない生活をしている克樹は、その返答に対し何のコメントもできぬまま、憮然とした面持ちで食卓についたのだった。
「いただきまーす」
先程の嫌な気分を忘れるかのように、高そうな肉を箸で摘み取り、しゃぶしゃぶしてタレをつけ、口中に放り込む。普段コンビニ弁当かチェーン店の牛丼ぐらいしか食べていない克樹だ。不味い訳がない。夢中で肉を貪り喰らっていると、母が慌てて幾つかの肉を別皿に盛りだした。
「今日お父さん遅いから、これとっといてあげてね」
克樹は、そんなら最初から別に取り分けておいてくれればいいのにと思った。別に卓に出ている肉を全て平らげる気はなくとも、初めにあった量より減らされたら正直良い気分はしないものだ。無論うっかりしていた母の事情も,十分情状を酌量する余地はあるのだが。
不満な気持ちが顔に出てしまう克樹を見て、母は嗜める。
「もう、そうやって食い意地張ってるから、お腹も出てくるのよ。少しは運動とかしてるの?」
一見正論のように聞こえるお説教だが、それ程説得力はない。というのも、母は克樹と同じような体格をしているからだ。母自身もそこがこのお説教の弱点だと自覚しているらしく、傍らの痩せた人間を引き合いに出して言葉を重ねる。
「ほら、恭ちゃん見てみなさい。ちゃんと野菜も食べてるでしょ」
そう言って母は自身も野菜をほおばる。だが、恭治とは明らかに一口の量が違う。おそらくここら辺も贅肉のつき方に影響を与えているのだろうな、と克樹は思った。
そもそも、食い意地が張っている張っていないの話だったはずなのに、いつの間にか野菜を食べる食べないの話にすり変わっているのが解せない。さらに言えば、別に父の分も食べたいなどとは、克樹は一言も言っていないのだ。なんとなく、食べ物を減らされると寂しい気がするというだけのことなのだ。
しかし、母の気持ちも分からないわけではない。何年も音沙汰のない息子を心配する母の気持ちは、克樹だって痛いほど承知しているのだ。だが、口を開けば同じことしか言ってこなかったり、辛辣だがどこかずれたお説教だったりで、ついつい足も連絡も遠のいてしまうのだ。こんな息子側の言い分も少しは分かってほしいのだが、母にそれを理解してくれと言うのはやはり酷なのだろう。やはりここは、息子の自分がしっかり受け止めなければならない、そう信じて克樹はお得意の曖昧な笑いで誤魔化していた。
母のお説教も一段落したころ、克樹はつと視線を横に移し、愛すべき弟を視界に入れる。兄以外の数多の女性からも愛されているこの弟ならば、こんなときも上手いこと切り抜けるんだろうか。というかそれ以前に、こういう事態に陥らないよう上手に立ち回るような気がする。羨ましいなと思う反面、弟は自分が難なく乗り越えているようなところで、思わぬ苦労をしているのかもしれない。克樹は、ぼんやりとそんなことを考えていた。肉を口に放り込むのを止めぬまま。
「何だよ、兄ちゃん」
兄に長い間見つめられて、きまりが悪くなったのであろう恭治は、コップを掴んで冷蔵庫にお茶を汲みに行く。母が引き合いに出すのも分かるほど、華奢で線の細い体だ。父が痩せているので、恭治はきっと父に似たのだろう。
一方、母に似たのであろう克樹とその原型である母は、恭治がお茶を注いでいる間もしゃぶしゃぶを貪り続けていた。結局のところ、説教した側も説教された側も、内から湧き出てくる食欲には耐え切れなかったのだ。
「ごちそうさまでした」
やがて、食後の挨拶が3人の口から発せられ、晩御飯の時間は終わりを告げた。