年末年始
15:着信
風呂から上がり部屋に戻ると、スマホに不在着信の履歴が残っていた。その履歴は、『大崎さん』という文字列をこれでもかと表示させている。
克樹はその文字列を見た途端、自身の胸の鼓動が高鳴るのを感じた。冷静に考えたら、どう見ても急な仕事の連絡である。勤め先の上司である大崎さんが、一部下の克樹に連絡をよこして、『以前から貴方に興味があったの。今度二人きりで会いましょ。私を好きにしてもいいから』なんて言い出す展開があるわけがない。あまりにも都合の良すぎるファンタジーのような妄想を何とかして振り払い、克己はしゃんとするよう努める。
「多分、何か障害が起きたんだろうな」
今現在、試験担当の方々が正月返上で試験をしているシステムを思い出す。克樹が手がけたのは、いわゆる基幹部と呼ばれるシステムの中心を担う箇所だ。ここが妙な動きをすると、正月の時間を梃子にして進めようとしている試験が全く進まなくなってしまう。克樹は一気に気持ちを憂鬱にさせながら、大崎さんへ折り返し連絡をする。
「もしもーし」
「あ、河西です。電話出れなくて済みません」
「あー、良かったよぅ。どっちの電話にも出ないから、部屋で野垂れ死んでるんかと思った」
今日は、目上の女性に死んでいると勘違いされる日なんだろうか。
「実は会社の携帯置いたまま、実家に帰ってまして。今は単に風呂に入っていただけです」
「うん。そうだったんだ」
大崎さんは何か言いたげだったが、それを抑えて言葉少なに受け止めたようだった。
「……で、何か、あったん、ですよね」
克樹はおずおずと本題を促す。
「あ、それなんだけど」
意外にも大崎さんの声は明るい。
「特定の操作をすると動かなくなるようだから、その操作回避して進めてる。4日来て確実に修正してくれれば大丈夫だから」
修正をすればソースコードも変わるので、正確を期すには試験をやり直すべきなのだが、納期が迫る今それをやっている時間はないというのが実情なのである。
「……すみません」
克樹はか細い声で謝る。実家で呑気にしている自分が、とてつもなく罪深いことをしているような気分になる。
「大丈夫、大丈夫。明日までしっかり休んで、4日ちゃんとやればいいんだから」
どちらかと言えば、責任を負っている上司の方が不安に思う状況なのだが、大崎さんはいつものように明るく克樹を励ます。
「ありがとうございます」
克樹は、その言葉がたまらなく痛かった。言えたのはお礼の一言だけだった。
「うん。じゃ、お休みなさい。ゆっくりしてね」
通話が切れる。克樹はため息をついてスマホを床に置く。
『……やっちまったか』
手が震えている。鼓動も早鐘のよう。でも冷静にならなければ。
克樹は、階下へ降りコップにお茶を注いで部屋に戻る。ゆっくり落ち着いて飲むつもりが、つい一気に飲み干してしまう。
「……焦ってるなあ」
自らを客観的に眺めようとしてひとりごちる。今、心身を消耗するのは1ミリも得がない。動揺を抑えなければ。
そもそも、人間とはミスをする生き物だ。そのミスを本番前に発見するために、試験が行われるわけじゃないか。今回の一件は、そのプロセスどおりに事が運んだだけだ。何も臆することはない、胸を張っていれば良いではないか。
だがそうは言っても、納期までの時間に余裕がないのは事実だ。ここで障害を出してしまったことは場合によったら致命傷にもなりかねない。それに、もうすでに正月を返上している試験担当の方々にも多大な迷惑をかけてしまっている。
「……」
しかし、だからといってそれで何もかもが納まるわけでもない。それこそ、試験で発見した障害を修正してやり直す時間を十二分に作れないくらい、納期に余裕がないのはいかがなものだろうか。
とは言っても、そこまで予測してスケジュールを決められる人間なんているわけがない。それに、納期なんてものは、大抵上層部の意向とやらで決められてしまうものなのだろうし。
治まらない動揺の中、思考だけがぐるぐる回転し続ける。埒が明かないので、もう寝てしまおうと布団を敷いて潜り込む。掛け布団をすっぽり頭まで被り、きつく目を瞑る。それでも思い浮かぶのはソースコードや仕様書といった仕事に関することばかり。
『大崎さんのためにも、ちゃんと休んで、ちゃんと頑張らなきゃな』
その結論に至り、眠りにつけたのは、もう夜もとっぷり更けている時分だった。