去りゆく人へ
言葉二つ交わして僕らは太陽を追うように帰った。
ボクは机の上に置いてあるボトルを見つめた。
結局その後、何度か花を買ってきて飾ったものの、枯れては換え、枯れては換えを繰り返すうちにやめてしまった。
どうせ枯れるのになぜ新しい花をまた手向けるのか。
どうせ別れるのに人はなぜ出会うのか。
どうせ死ぬのに人はなぜ・・・
人間暇になると哲学的なことを考えがちになる。
ところで、恋人と別れると思い出の物を捨てるとかよく聞くけれどボクは捨てる気にはならなかった。
それはなぜかと聞かれるとハッキリとは答えられない。
杏菜はボクが買ったハサミを今も使っているだろうか。
なんとなくボクは使っている気がする。
別れたからとかそういう理由に縛られずに目の前にある「ハサミ」という便利なツールを使うのが彼女だ。
ボクなんかよりもよっぽど実用的で強い人だ。
少なくとも就職活動の履歴書を一緒に書いている時には使っていたっけ。
証明写真を切るときに、使っていた。
ボトルを見て杏菜と一緒に行ったアンティークショップを思い出していたが、それどころか、就職活動さえも今やボクを通り過ぎて行った。
「そろそろ真剣に考えないとね。」
一月。
杏菜はボクの部屋のコタツで寝ころんだまま呟いた。
「何を。」
ボクは杏菜の足をつつきながら答える。
「『何を』って言ってる時点で考えてないでしょ。」
杏菜は起き上がってボクを見た。
「ああ、就職か。」
「そうそう。」
うーん、とボクは唸った。
そのころ杏菜は公認会計士の資格を無事に取って、自分の進路、自分の道というのが明確に見えていた。
ボクはというと、なんとなく就活セミナーや企業説明会に顔を出したものの、ハッキリと自分が何をしたいのか分からずにいた。
手ごたえを感じずにセミナーから帰ってくるボクに杏菜は「参加しただけで満足してない?」といつも言った。
「大体さ、就職活動って大学三年生には無理があると思わない?」
「なんで?」
「だってさ、大学三年生っていうのは大学生活にも慣れに慣れ切って、大学に行く機会が減ってみんなダラけだす。学生だから髪を染めても怒られないし、講義に遅刻しても特に怒られない。就職活動は急にその逆をやらなきゃいけない。」
「たしかにそうだけど、いつかは・・・というか、もうすぐ来るんだよ。間違いなく。その日が。就職活動解禁日が。」
杏菜が珍しく語気を荒げた。
「たしかにそうだけど、イマイチモチベーションが出ないというか、実感がわかないんだよね。」
今度はボクがコタツに飲み込まれた。
はあ、とため息をついて杏菜がボクをコタツから引っ張り出した。
「おわっ、ビックリした。」
「これ、見て。」
杏菜が一枚の紙をボクの顔前に突き付けた。
「今度市民会館で大きめの合同企業説明会があるから行って。」
「でもその日は先輩と用事が・・・」
「行くの。分かった?」
杏菜の眉間には大きくシワが刻まれている。
「分かりました。」
ボクは渋々頷いた。
「私、どうしてこんなに怒ってるんだろう。」
杏菜はボクも見ずにボソッと呟いた。
その一言がなぜかすごく怖かった。
窓の外では乾いた雪がゆっくりと落ちていた。
案の定ボクは三月になると急に慌てだしてキビキビと就職活動を始めた。
履歴書の書き方さえ分からないボクに杏菜は丁寧に教えてくれた。
就職活動中、なぜか杏菜はいつも上機嫌だった。
「何か良いことでもあった?」
「別にないよ。」
自分でもよく分からないの、と杏菜はいつも答えた。
早めに就職活動を終えた杏菜はボクに
「就職活動が終わるまでは色々とお預けね。」
と言ってしばらく会わない日々が続いた。
杏菜の一か月後に就職活動を終えたボクが杏菜に連絡すると会おうという話なった。
「ちょうど言わなきゃいけないこともあるの。」
「了解。なんだろうね。じゃあ、場所はいつもの・・・」
と、ボクは久しぶりに会える嬉しさと、就職活動を終えた解放感で特に何も考えていなかった。
ボクは何も考えていなかった。
―――なんとなくってことですか。
そうですね。今でもイマイチ分かっていないんです。ただ、別れようかなって頭に浮かんで、それを認めた時、心が軽くなったんです。
―――うーん、彼氏さんは納得されましたか。
いえ、困惑してました。私もうまく言葉に出来ればよかったんですけどね。特にここが生理的に無理だとか、他に好きな人が出来たわけでもないんです。
―――別れようと決心したのはいつですか。
就職活動が始まる頃ですね。
ああ、思えばあの時私は、「このままこの人といたら置いて枯れる」って思ったんです。
―――置いていかれるというのは、誰にですか。
誰というか、周りの人にもそうですし、代わり映えのない大学生活が終わろうとしている中で、このままだと自分自身に置いてかれるって思ったんです。彼といるときの私じゃない私。彼の知らない私。彼と出会わなかった私。
―――なかなか難しいことを言われますね。
すみません。要するに彼と一緒にいても前に進めないって思ったんだと思います。
―――彼は今頃何をしてると思いますか。
なかなかな質問ですね。
―――すみません。
彼は、あの人は、たぶんまだ過去の中にいるんじゃないでしょうか。まるで大学生活が、この時間が永遠かのように。ご老人の様に「あの頃は・・・」みたいな。
―――なるほど。今でも彼を思い出しますか。
いえ、今日こうやってインタビューされるまでは一度も。
そう言って女性は八重歯を見せながら笑顔を見せた。
―――お忙しいところありがとうございました。
いえいえ、では。
女性はその場を去った。
1
目覚まし時計がけたたましく鳴っている。
ボクはそれを叩くように止めた。
今日もあまり眠れなかった気がする。
ボクは軽い朝食をとると身支度をしてアパートを出た。
今日は卒業論文の経過報告をしに大学へ行かなければならない。
就職活動を終えた大学四年生が唯一大学生らしいことをする。それが卒業論文を書くことだ。
卒業論文の経過報告はゼミごとに行われる。
ボクの所属しているゼミは六人で、数少ない友人の一人である後藤がいる。
二週間に一度のペースであるこの集まりにボクは後藤と話すために行っているようなものだと最近思った。
大学に着くといつもの教室に向かう。
いつもの席に後藤がいた。
「よう。」
ボクは思わず頬が緩む。
「よう。どうしたんだよ。ニヤニヤして。」
「いやさ、最近話し相手がいなくて。人と話すだけで楽しいんだよ。」
「俺くらいしか話し相手がいないのはさすがにマズいな。」
ああ、と後藤は何かを思い出したようにこちらを見た。
「今ので思い出したんだけどさ、俺、アパートを引き払って実家に帰ることになった。」
「えっ。」
「次お前に会うのは卒業式だな。俺の実家こっからスゲー遠いから。」
ボクは思わずたじろぐ。
「いやだって卒業論文の経過報告、あるんじゃん。」
「いやそれがな、教授に家賃がもったいないから、アパートを引き払いたいって相談したら卒論の報告会、今日で終わりらしい。これからは個人で大学に行って教授と相談しながらやるんだってよ。」
「ああ、そうか。」。