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優しさに感染した男
優しさに感染した男
novelistID. 61920
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去りゆく人へ

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というのも、ベースを始めてからまだ数か月しか経ってなかったし、先輩にも「まだお前には難しい曲は無理だな」と念を押されていたからだ。
「あっ、上手というか、一生懸命で。」
「はあ、いや、ありがとうございます。嬉しいです。」
これは後になってから分かったことだが、杏菜はベースはもちろん、バンド自体に興味は一切なく、ボクと話す口実が欲しかっただけらしい。
「それで、あの、私もバンド活動というか、サークルに入りたいので・・・」
「ああ、それならあそこに座っている代表に言えば・・・」
一瞬彼女は下を向いた。
「いえ、あの代表なんだか怖くて。」
「あ、知ってます?」
ボクは少し嬉しくなった。
代表がボクらのバンドを嫌っているというのはその時既に知っていたからだ。
代表の悪評は聞いて何となく悪い気はしない。
「知ってるというか、ほら、雰囲気が。」
「分かります。」
「なので、あの連絡先というか、教えてくれませんか。」
「いいですよ。」
ボクは携帯を取り出した。
「私、佐々木杏菜って言います。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「あれ、一年生?」
「はい。」
「じゃあ、ためぐちでいいです、いや、いいかな。」
「はい。じゃなくて、うん。」
いいな、って思った。
これがボクと杏菜の出会いだった。

先輩曰く、一年生というのは最も恋人ができやすい学年なのだという。
「誰でも新生活は不安だろ。人肌恋しくなんだよ。」
「先輩もそうだったんですか。」
「いや、俺の話はいいんだよ。」
いつもの廊下を歩いていた。
やがて食堂が見えてきた。
「先輩、じゃあボクはここで。」
「ああ、そっか。てことは今日は水曜日か。」
「はい。じゃあ、お疲れ様です。」
「おう、じゃあな。」
食堂の奥の奥。
窓からちょうどバス停が見える大きめのテーブルで杏菜はいつも待っていた。
「あ、どうもこんにちは~」
ボクは少しふざける。
杏菜は一瞬驚いた様子だったがすぐにボクだと気が付いた。
「なにそれ。」
フフッと、八重歯を見せながら笑った。
「待った?」
「うーん、それほど。」
「そっか。」
「行こうか。」
「うん。ちょっと待って。」
杏菜はいそいそとテーブルに広げてあるノートやらテキストを鞄にしまう。
「あれ、今週ってなんかテストあった?」
「んーん。資格の勉強。」
「さすがですねぇ。」
「人間はね、最後は一人で戦わなければならないの。過去を断ち切り、未来へ向かって。」
「今週の分、まだ見てないなぁ。」
「ええ~私なんか毎週リアルタイムで正座しながら見てるよ。」
「ハマりすぎ。」
「歩きながらネタバレしてあげようか。」
「やめてくれ~。」
「冗談冗談。」
杏菜はまた笑った。
いいな。
「よし。準備完了。」
ボク達はバス停へ向かった。

駅前でバスを降りて辺りを見回す。
空がほんのり赤く色づいていた。
「どっち行こう。」
「今日は、こっちかな。」
杏菜が指さす。
「オーケー、行こうか。」
毎週水曜日はこうして肩を並べて行き当たりばったりの散策をする。
地図も見なければ特に目的もない。
おいしそうなカフェでコーヒーを飲んだり、公園の遊具で遊んだり、カラオケボックスに入ったり。
時には何も見つからずに歩くだけの日もあるけれど、それでも良かった。
二人で歩くだけでも良い。
二人とも車を持ってなくてよかった。
ゆっくり時間の流れを感じられるから。
「今日はなかなか何もないね~」
杏菜が辺りを見渡しながら言った。
今日の散策は今のところこれといった発見も無かった。
やがて丁字路に差し掛かる。
「こっちの道は、たぶんこの前に行った通りに出る。」
じゃあ、と杏菜がボクの指とは逆を指した。
「こっちね。」
「うん。」
しばらく歩いていると小さな看板が見えた。
「何の看板かな。」
二人とも歩く速度が少し上がった。
「あ、ん、なんて読むのこれ。」
看板の正面に来たものの、オシャレな筆記体で書かれた英字に二人とも困惑した。
「ああ、アンティークじゃない?」
「アンティークって小物のこと?」
「そうそう。」
「本当だ、店の中、置物とかが見えるよ。」
杏菜が店内を指さした。
「入ろうよ。小さな隠れ家的な。オシャレだね~。」
返事もしていないのに杏菜に手を引かれてボクは店内へと足を進めた。
「行くから、あんまり引っ張ると危ないよ。」

店内はさっき杏菜が言った通り決して広いとは言えなかったが独特の雰囲気がある。
木を基調とした店内の内装はどこか懐かしさを感じる。
やさしい香りがした。
しばらく店内を二人で回った。
少し心配だった商品の値段は思ったほど高くはなかった。
記念に何か買おう。
「じゃあさ、お互いがお互いに合う小物を選ぶのは、どう。」
杏菜が嬉々とした表情でボクを見つめる。
「いいよ。あんまり高いのは無理だけど。」
「分かってるってば。」
「じゃあ、スタート。」
ボクらは違う方向へと足を進めた。

ちょうど選び終わったとき杏菜がボクの肩を叩いた。
「終わった?」
「ちょうどね。」
「なんだろう~」
「とりあえず、買って、外で見せ合おうっか。」
「オーケー。」
会計を済ませて外に出ると、夕日が沈みかけていた。
オレンジ色の光に照らされてボクらは思わず目を細めた。
「それで、何買ったの?」
あえてそれには触れずに杏菜がボクを見た。
紅く染まった頬につい触れたくなる。
ボクは紙袋から小さなハサミを取り出した。
「なにこれ、ハサミ?」
「そうそう。ミニシザーだって。」
ボクは杏菜にそれを渡した。
その小さなハサミは銅色で、指を入れる穴が大きく、その分、先端の刃は短い。
持ち手のレリーフがまさにアンティークという感じがした。
「らしいね。」
「え?」
ボクは聞き返す。
「なーんか、実用的というか、無駄が無いというか。」
「そっか。」
でも杏菜がこういう言い回しをする時は悪いとは思っていないとボクは知っている。
「ありがと。今日からありとあらゆるものをこれで切るよ。」
「なんか怖いな~。」
「ふふふ。」
「次、杏菜だよ。」
「はいはーい。私はね、これ。」
杏菜は紙袋からガラスのボトルを取り出した。
半透明のボトルは薄い緑色で、夕日に照らされて光が反射する。
「これは何用?」
ボクが尋ねる。
「花。」
「ああ、花瓶みたいな。」
「そうそう。っていうか、花とか飾ったこと、無いでしょ。」
「無いなぁ。」
たしかに。
部屋の家具などにまったくこだわりが無いわけではないけど、
「花を飾ろうなんて考えたことも無いね。」
「そうでしょ。なんか、いつも実用的なものばっかり考えてる気がする。」
ほら、これも。と、先ほどボクがあげたハサミを見せつける。
「これを機に何か飾ってみたら。」
「そうだね、来週は花屋に行くか。」
「賛成。」
「じゃあ、暗くなったし帰ろうか。」
 「うん。」
 安奈がボクの一歩前に出たと同時にボクは忘れものに気が付いた。
 立ち止まっているボクに気が付いた杏菜が振り返る。
 「どうしたの、帰るよー。」
 「杏菜、ありがとう。大切に使うよ。これを言うのを忘れててさ。」
 「どういたしまして。」
 沈みかけた夕日をバックに杏菜が笑う。
 また来ようね。
 うん。