スーパーソウルズ
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「大下、例の椿谷って少年、見つかったか」
敦木署内の廊下で佐賀は大下巡査に声をかけた。
「いや、佐賀係長。それどころじゃないっす」
「イノシシの件か? もう下っ端に出番はないだろ」
「それが未だに、目撃情報のたんびに出動で・・・」
「大変だな。頑張れよ」
「ありがとうございます。あ、椿谷裕司はまだ見つかっていません」
「そうか」
「見つかったら、連絡しますので」
「おぅ、サンキュー」
佐賀は大下を軽く労って、階段をのぼった。
警察署の屋上の扉を開けると、喫煙スペースひとり喫煙している曽根を見つけて言った。
「ここだと思った、曽根」
「僕を探してたんですか、佐賀先輩?」
「うん、ちょっとな」
「なんですか?」
「曽根、お前ユアトって名前聞いたことあるか」
「ユアト? ユアト、ユアト・・・」
「若い連中に訊いても知らないって」
曽根は中空を見あげて、手のひらに文字を書いた。
「なっ?」
「あ、あります、先輩。すっごいイケメンだとかいって、彼女が見せてくれました」
「ユーチューブ動画か」
「はい。ちょっと見ただけですけど、たいしたイケメンじゃなかった」
「そこじゃなくて、そいつ駅前の多重事故の映像使って、なんかコメントしてるんだよ」
「あのヘンテコな追突事故ですか?」
「見たか、その回?」
「いいえ。イケメン動画にありましたか?」
「あったよ! ちゃんと見ろ!」
「すみません」
曽根は肩をすぼめた。
「まあ、いい」
と、佐賀は咥えたタバコに、使い捨てライターで火をつけた。
「あれ、ニュース映像や警察が公表した写真以外にも、一般市民には入手困難な防犯カメラ映像も含まれていた。
そこまでしてユアトは何を主張したかったのか。それに、あのユアト動画には気になる少年も映っていた」
「家出した高校生ですか?」
「ああ。まだ見つかってないらしい」
「あの動画ちょっと見、胡散臭い内容でしたよ」
「ああ。ただその少年と多重事故に関係性があるようなユアトの口ぶりだったのが・・・」
「あれはベンツのわき見が主因でしょ。それが連鎖的な追突事故を招いたという事故報告を読みました」
「たった1台の不注意であそこまで大きくなるか? 現場にブレーキ痕がほとんど残っていなかった」
「だからヘンテコな事故」
「今回のイノシシ暴走事件にユアトが絡んでいるというSNSを見た」
「えぇぇ? ユアトが黒幕?」
曽根は冗談めかして驚いて見せた。
「よくわからんがな。あいつをしょっ引いて話を訊いてやろうかと」
「しょっ引くのは無理でしょ。事故動画をアップしたくらいで」
「叩けば何か出てくるだろう」
「佐賀先輩、今敦木署大変なんすよ。ヘタ打てば逆にこっちが叩かれる」
「チッ」
と、佐賀は舌打ちしてタバコを揉み消した。
管轄内で起きた猛獣による悲惨な事件に心を痛めていた佐賀であったが、現実には獣より人間が起こす強盗や傷害事件に忙殺される日々だった。
検挙や取調べ、それにまつわる事務作業を夜通し続け、佐賀は家族の待つ自宅に帰るため、始発の電車に乗った。
自宅の最寄り駅は、閑静な住宅街のほぼ真ん中に位置していた。
夜が明けきらぬ早朝とあって、駅周辺の人影はまばらだ。
電柱や建物の上で甲高い鳴き声を発するカラスの数のほうがはるかに多い。
自宅に向かう舗道を歩いていると、住宅街の奥から悲鳴が聞こえてきた。
曲がり角の向こうから何かがやってくる気配に、佐賀は身構えた。
シャラシャラと地面がこすれるような音が近づいてきて、姿を現した。
スリムな大型犬だった。猟犬だろうか。
首輪から伸びたチェーンロープを引きずって、佐賀に向かって走ってきた。
全身を灰色の毛に覆われているが、前面にだけ黒いブチが少しある。
猟犬が速足で佐賀の横を通り過ぎる瞬間、佐賀は驚愕した。
犬の口から血が滴り落ちているのだ。
黒いブチに見えたのは血糊だった。
一瞬見た犬の眼は、狂気を孕んでぎらついていた。
住宅の角から、慌てた様子で犬の名前を呼びながら男が走ってきた。
猟犬の飼い主であろう男は肩で息をした。
男の上着袖は破れ、指先から血が滴っていた。
「何があったんです?」
佐賀は飼い主を呼び止めた。
「うちの犬が・・・うちの犬が・・・」
「落ち着いてください」
「救急車、救急車お願いします」
「わかりました。私は警察です。何があったか・・・」
「散歩中に急に暴れだして・・・。見守り隊の宇野さんが噛まれました。かなりの出血です」
佐賀はガラケーを開いて警察と消防に連絡した。
子どもたちの安全な登下校を見守るボランティアスタッフの宇野は、直ちに病院に運ばれた。
だが、大量に失血しており危篤状態が続いた。
宇野老人を襲ったセッターと種別される飼い犬の猟犬は、総動員された警察官にネットガンで捕らえられ、その場で薬殺された。
管轄が異なるため、事件を所轄の警察署に引き継いだ佐賀は、自宅に戻り家族の無事をまず確かめた。
佐賀の妻は帰宅した佐賀の衣服の袖や裾が血で汚れていることに気づいたが、気丈に振舞った。
スマホに届くエリアメールで、佐賀の妻はおおよその事件の概要を把握しでいた。
よって、起床した子どもを戸外に出すことはなかった。
「おいで」
庭の犬小屋で飼っていたミニチュアダックスを、佐賀の妻は縁側に呼び寄せた。
両手で優しく抱くと、佐賀の妻はそのまま室内に引き入れた。
「運転、気をつけろよ」
リビングで暫くローカルニュースに見入っていた佐賀は、車で出勤する妻にそう声をかけた。
それから冷めた朝食をレンジで温めた。
正午を過ぎても、猟犬が人を襲ったニュースは流れなかった。
宇野という男が猟犬に悪さをして、反撃されたのだろう。
テレビで取りあげるほどのニュースではなかったか。
不幸な事故だったわけだ。
佐賀はシャワーを浴びると、泥のように眠りについた。
佐賀が住まう地区と同様、飼い犬が人を襲った事件が都内荒川区や練馬区、埼玉県朝霞市などでたて続けに起きた。
佐賀がそのいたことを知るのは、佐賀が夕方に目覚めた後である。
ダルメシアン、ポメラニアン、コーギー。
人を襲った犬種は様々だった。
5件目、6件目と事件報告が、佐賀の耳に届く。
すべての犬が狂犬病予防接種を受けており、しかるべき行政機関に飼い犬登録もされていた。
まっとうなペットとして、何ら問題なく市民生活に溶けこんでいた犬たちだった。
それがある日突然、凶暴化したのだ。
イノシシ暴走事件同様、凶暴化の原因は特定されなかった。
イノシシ事件と異なる点といえば、警察の対応とSNSの反応だろう。
野生のイノシシに対して警察は銃を用いて駆除したが、ペットの犬に発砲することはなかった。
十分に装備した隊員が数人で取り囲んで、暴れ犬を制圧した。
イノシシ事件では警察の発砲に対して寛容だった一般市民の反応も、ペットの犬に銃口を向けることには不寛容だ。
SNS上では、人を死の淵に追いやった動物にさえ擁護する声があがり、論戦となった。
もし駅やショッピングセンターに凶暴化したペットの犬たちが、イノシシのときと同じように徒党を組んで現れたら、