スーパーソウルズ
一刻も早く森を抜け出したい。
誰か助けてくれる人はいないか。
さもなければ安全に休める場所。
淡い期待を抱きつつ、裕司は森の中を駆けた。
流れる汗が尽きるほど、裕司は救いを求めて駆け続けた。
しかし、人家どころか人が足を踏み入れた形跡もない雑木林が続くばかり。
日没直後の薄明かりの中、裕司は、深い林の中に置き去られたような小さな建物を見つけた。
スチール製の物置小屋だった。
引違い戸が少し開いており、中が見える。
錆びた鳥獣捕獲用の檻が、小屋いっぱいに重ねて置いてあった。
ひと抱えはある大きな鉄製の檻ばかりだ。
裕司は最後の力を振り絞って、大きな檻を小屋の外に運びだした。
檻を運び終えた小屋は、人がふたり寝転べるくらいのスペースがあった。
だが引き戸の縁に腰をおろしたところで、裕司は力尽きた。
小屋の中に身体を投げだして、死んだように寝入ってしまった。
犬が吠える声で気がついた。
横たわったまま朧げな意識の中、鼓膜を震わす声に耳をすませる。
汗か朝露か、冷たいものが裕司の頬をつたって落ちていく。
裕司の脳裏に、幼い頃、家族で飼っていた柴犬の思い出が立ちあがった。
「ジロー・・・」
無意識に口をついた。
啼き声が鮮明になるにつれ、それがジローのものでないことを認識した。
ジローはもうこの世にいない。
もしそれがジローの啼き声だったら、自分もジローと同じ世界にいる。
目を開けて見えてきたものは、土くれと折り重なる落葉。
鼻腔を瑞々しい空気がくすぐる。
樹々に囲まれたリアルな森の中にいる・・・。
落葉をせわしなく踏み続け、けたたましく吠え続ける犬の足が見える。
裕司はゾクっとして、上体を起こした。
薄茶色に汚れた白っぽい中型犬が、裕司の周囲を行ったり来たりしていた。
白い犬は裕司に牙を向けているのではない。
森の奥深くの何かに向けて、ひっきりなしに吠え立てた。
樹木の間、薄闇の中に二つの目が光った。
白い犬は迫る危険を知らせるために吠えているのだろう、と裕司は直感した。
緑のカーテンを分け、肩を怒らせた巨大な獣が森の中から姿を現した。
野犬ではない。
より獰猛な熊だ。
胸と首の間に白いラインがあった。
ツキノワグマだ。
立ち上がって威嚇する姿は、ゆうに体長2メートルを超えている。
裕司は本能的に身構えたが、右足に痛みが走った。
右足首にまったく力が入らない。
ツキノワグマがドスドスと巨体を揺らして迫ってきた。
その牙は血で汚れている。
裕司は中型犬を抱き抱えると、空間の拓けた小屋の中に身体を投げ出した。
粗末な引き戸を、内側から強く閉めた。
放りだされた鉄の檻を弾き飛ばす勢いで熊は物置小屋に襲いかかった。
地鳴りのような咆哮が小屋を揺らす。
裕司は必死の形相で引き戸を押さえた。
グゥ―グゥーと怒るような吼え声とともに小屋が揺れる。
巨体がぶつかり、外壁が剥がれるような音がして何度も何度も揺さぶられた。
堪える力がなくなり、裕司は引き戸から手を離した。
怯える犬を脇に抱えて、小屋の隅で身を震わせた。
吼え声が止んでしばらく、小屋の揺れが収まった。
静寂が小屋の内外を包んだ。
引き戸の隙間から外の様子を窺う。
獰猛な熊の姿は見えない。諦めて引きあげたか。
一時の恐怖心が収束するにつれ、右足の痛みがぶり返してきて、裕司は顔をしかめた。
額の汗が顔面をつたってぽたぽたと床に流れ落ちた。
煤けた白い犬が、腫れ上がった裕司の右足を心配そうに見ている。
毛色は違うが黒目がちの瞳が、飼い犬だったジローと重なって裕司には見えた。
「お前が教えてくれたからだ。さっきは助かった」
裕司は犬を膝の上に抱きよせた。
首輪が毛並に隠れてないか裕司が首を触ると、犬はクークーとかわいい声で啼く。
首輪はなかったが、白い犬は嫌がることなく人懐っこい。
誰かの飼い犬だったに違いない、と裕司は思った。
「ジロー」
裕司は犬にそう呼び掛けた。
ジローと呼ばれた犬は、耳を立てて裕司を見上げた。
「ここはめちゃくちゃ暑い。だけど外は危険だ。それにこの足じゃ一歩も歩けない。なぁジロー。もう少し辛抱してくれるか」
ジローは大きな瞳を閉じ気味にして裕司に鼻をすり寄せた。