お前だけには負けられない!
目の前の一勝にこだわるならば右上手から取りに行きたい、それで自分は勝って来たのだから……だが師匠の見立ては違っていた、右を狙って行く立ち合いは読まれている、圧力も弱い、雪ヶ谷の素質、相撲カンをもってすれば動きの中で右を取ることは充分に可能だ、ならば立ち合いで圧力をかけてまず左を取りそれを命綱としてじっくり構える方が良い。
その立ち合いがしっくり来ずに幕下に陥落し、次の場所も負け越した。
だが、その二場所で新しい立ち合いは身について来た、次の場所、形になって来た新しい立ち合いは雪ヶ谷の武器となり、好成績を収めて十両に返り咲くことができた。
そしてその後、二年かけてその立ち合いを徐々に自分の物にして行った。
その二年の間に二人の直接対決も十番あった、最初こそ二連敗したものの、その後は五分、二年間の通算は五勝七敗だった。
そして自分の相撲を決して曲げずに地道に地力をつけて行った武蔵光も、次第に大関候補と目されるようになって行った。
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西方の三役揃い踏みも終わり、二人は仕切り線を挟んで向き合った。
勝った方が大関、正にライバル対決と言うにふさわしい一番、そして両者にとってどうしても負けられない一番でもある。
制限時間前の仕切りから目には見えない火花が散り、観客のボルテージは上がる一方だ。その歓声が飛び交う中、呼び出しが立上りタオルを渡した、制限時間いっぱいの合図だ。
武蔵光には一片の迷いもない、この相手が立ち合いに変化するとは考えられない、真っ向からぶつかって自分の相撲を取り切るだけだ。
雪ヶ谷にも迷いはなかった、相手がぶちかましてくることはわかり切っている、その当たりに負けないように右から強く当たてかち上げる、そして命綱となる左の前まわし、それを早く掴むことだけを考えていた。
仕切り線に手をついて呼吸を合わせる、観客の大歓声も二人にはもう聞こえていない、聞こえるはずのない相手の息遣い、そして心臓の鼓動までが聞こえて来るような境地に二人は入っていた。
互いの『気』が高まるのを感じ合い、それが最高潮に達した時、二人は同時に踏み込んだ。
武蔵光のぶちかましと雪ヶ谷のかち上げ、わずかに武蔵光が勝り、雪ヶ谷は一歩後退を余儀なくされる、だが、その間に長い手を伸ばして左の前まわしを掴んでいた。
武蔵光が一気に押し込んで行き、雪ヶ谷はずるずると後退させられるが、腰の構えは崩されていない。
武蔵光も雪ヶ谷が右で上手を取りに来ることはわかっている、土俵際で左を伸ばして雪ヶ谷の右まわしを防ぎに行く、だがその動きに反応した雪ヶ谷は左から出し投げを打った。
左を外されて前のめりになる武蔵光、もう土俵は残っていない、だが、稽古を積み、経験も重ねていた武蔵光はとっさに体を反転させると土俵伝いに回り込み、出し投げで一気に勝負をつけるつもりだった雪ヶ谷の左を振りほどくことに成功した。
そして再びぶちかましに行く武蔵光、だが雪ヶ谷は左に体を開いてその衝撃を受け流すと右の上手を掴んだ。
(しまった!)絶対に取られてはならないと心していた右の上手、この態勢で右から出し投げを打たれたらひとたまりもない、武蔵光はとっさに左でまわしを掴んだ、普段なら決して取りに行くことのないまわし、だが今はそれが命綱になる、右上手からの出し投げに左下手からの出し投げで対抗し、両者はたたらを踏んで正対した。
まわしさえ掴んでいれば武蔵光はぶちかましに来れない、雪ヶ谷が左も取りに行くとそれに反応して武蔵光も右の上手を掴んだ。
がっぷり四つ、圧倒的に雪ヶ谷有利な態勢だ。
(イチかバチか勝負をかけるしかない)
武蔵光は腰を低くして、渾身の力を込めてがむしゃらに寄って行く、思わぬその圧力に雪ヶ谷は後退したが、俵に足がかかるとピタリと止まった。
(ここだ!)
雪ヶ谷は渾身の力を込めて武蔵光の150キロの体を吊り上げようとする。
だが武蔵光もあきらめてはいない、土俵から脚が離れる寸前、体を浴びせて行くと、雪ヶ谷の体も大きく後ろに傾く……。
どっちだ。
観客は固唾を飲み、行事は勝負を見極めようと態勢を低くする。
重なったまま倒れて行く両者、だが、最後に物を言ったのは雪ヶ谷の右上手だった。
後ろ向きに倒れながらも右からひねり、武蔵光を裏返して共に土俵下へと落ちて行った。
落ちるタイミングはほぼ同時、だが裏返しにされた武蔵光にはもう体がない(注5)、それをしっかり見極めていた行事はさっと西に軍配を上げた。
「小結に叶う(注6)、雪ヶ谷ぁぁぁぁ」
千秋楽・三役揃い踏み後の取り組みの勝者には、懸賞金と共にそれぞれ矢、弦、弓が与えられる。
勝ち名乗りを受け、矢と懸賞金を受け取りながら、雪ヶ谷は小さくつぶやいた。
(ごっつぁんです)
それは、大関昇進を射止めた喜びの発露、そしてここまで自分を引っ張り上げてくれたライバルへの感謝の気持ちが思わずこぼれ出したものだった。
場所後の番付編成会議で、雪ヶ谷は大関昇進を決めた。
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そして……。
大関昇進に伴う行事がひと段落した後、酒を酌み交わす雪ヶ谷と武蔵光の姿があった。
きっかけは武蔵光が送った『おめでとう』のメールだった。
元々いがみ合っていたわけではない、強いライバル心が言葉を交わすことを妨げていたのが固定してしまっていただけのことだ、高校時代からお互いを意識し、認め合って来た、きっかけさえあれば親友にすらなれる二人だったのだ。
そして次の大阪場所で十二勝を挙げた武蔵光もひと場所遅れで大関昇進を決めた。
雪ヶ谷が一本下げて祝福しに行ったのは言うまでもない。
大関として大相撲の屋台骨を支える立場になった二人、自分の番付を上げることだけ考えていれば良い立場ではなくなり、プレッシャーがかかる時もある。
だが、二人そろっていれば押しつぶされることもない、柱一本では支えられなくとも二本ならば支えられる、そう言うことだ。
そして、お互いのライバル心は今でも冷めることはない、なぜなら番付にはまだ一つ上があるのだから……。
(終)
作品名:お前だけには負けられない! 作家名:ST