お前だけには負けられない!
その頃、今度は雪ヶ谷が壁に当たっていた。
幕下上位に上がった辺りから、当たってすぐに右上手を取りに行く立ち合いが通用しなくなって来ていた、既に雪ヶ谷はホープとして注目を浴びるようになっていて当然研究もされる。
立ち合いに右に変化される、右上手に手がかかってもすぐ腰を振って切られる、右半身で廻しを遠くされる、会心の相撲はぐっと減って来ていた、だが持ち前の相撲カン、粘り腰で勝ち星を拾って来ていたのだ。
だが、十両に上がると幕内経験者も多く、中には小結、関脇を経験して横綱、大関と何度も対戦して来たベテランもいる、相撲の上手さ、厳しさが違う。
上手く取られて十分な形を作らせてもらえない、土俵際での詰めも厳しいので天性の粘り腰も逆転までは至らない、そんな相撲が増えて、十両の下位をウロウロとする場所が続いていた。
素質は誰もが認めるところ、だが、そんなホープであっても大成しなかったケースはままある、関取と呼ばれるのは力士全体の一割強、早くに見切りをつけて相撲界を去った者をカウントすれば数パーセントにしか過ぎない。 そのレベルになれば素質だけで勝てるものではない、素質に加えてその力士ならではの『何か』を身に付けられなければ更なる出世は見込めない。
雪ヶ谷とて稽古をサボっていたわけではない、だが自分がそれまでやって来たことを変えることは勇気がいる、『何か』を身に着けるための稽古はしておらず、それがすっかり身につくまで低迷しても我慢すると言う覚悟が出来ていなかった、素質で維持できる地位に甘んじていたつもりはないが、今の取り口を大きく変えることなく地力をつけて行けば上が見えてくると思っていた、いや、思おうとしていたのだ。
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二人が久しぶりに対戦したのはその場所の千秋楽だった。
(落ち着いてるな……)
しばらく幕下で足踏みしていた武蔵光、だが幕下筆頭で既に勝ち越していて来場所の十両昇進を決めていた、一方の雪ヶ谷は十両の十枚目で六勝八敗、この一番を落とすと十両陥落の可能性が高い。
(落ち着いてるな……)
最初の仕切りで雪ヶ谷はそう感じた。
自分と対戦する時の武蔵光はもっと闘志をみなぎらせて、ギラギラした様子だったはず……だが今目の前にいるライバルは闘志を外に出さずに内に秘めて集中力に変えているかのように感じた。
仕切りを繰り返すうちに徐々に闘志は前へ出て来たが、それにつれて集中力も更に高まっているように見える。
雪ヶ谷は『負けられない』と言う気持ちは強いものの、武蔵光の変貌が気になって今一つ集中しきれないまま制限時間を迎えた。
立ち合い、武蔵光はいつも通りのぶちかまし、雪ヶ谷も体当たりで対抗するが、はっきり武蔵光が上回った。
(くっ……)
土俵際まで一気に押されたが、俵に足がかかると雪ヶ谷も粘り腰が発揮できる。
ぐいぐいと押されながらも上体を反らして受け流し、まわしを探る。
(しめた!)
欲しかった右上手に手がかかる、これさえ取ってしまえば引き付けて左まわしも……。
そう思った瞬間だった、思いがけず武蔵光からの圧力が緩み、反りかえっていた上体が垂直まで回復した。
(よし、行ける)
雪ヶ谷がそう思った瞬間だった、武蔵光は腰を振って雪ヶ谷の右を切った。
(あっ)
そう思う間もなく武蔵光は更に腰を低くしてのハズ押し、雪ヶ谷は腰ごと持って行かれるようになすすべなく土俵を割った……。
国技館の力士通路には小型モニターが置かれている、雪ヶ谷は足を止めて食い入るようにモニターを見つめた。
立ち合いで後手に回ったのはわかっている、土俵際まで一気に押されたのは自分の立ち合いが甘かったせいだ、問題は土俵際での攻防。
自分がのけ反りながら残し武蔵光が押す、それは何度も繰り返された光景だ、だが、今の一番、土俵際でまわしを取られたのを察知した武蔵光は左脚を半歩引いた。
一気の押しにこだわりを持っていた武蔵光が引く、それは全く考えていなかった。
その動きで自分の態勢は少し回復したように思えた、だがモニターの中の自分は命綱のまわしを切られてまぬけに右手を泳がせている、そこへ間髪を入れない二の矢の押し。
どう見ても完敗だ、武蔵光の土俵際での動きは安全策などと言う消極的なものではなかった、二の矢の押しに自信を付けた、だからこそできることだ。
この後、武蔵光は土俵際で突き落されたりはたき込まれることは格段に減るだろう、だとしたら番付を逆転されたのは一過性のものではない、武蔵光はこのまま着実に上がって行くだろう、横綱や大関の壁にはね返されることはあるかもしれない、だが、彼の押しはその壁を必ず打ち砕く、それも近い将来……。
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大相撲では幕下以下と十両以上では待遇が全く異なる、幕下以下は所属する部屋に手当が支給されるだけで無給金、要するに半人前、見習い扱いなのだ、ところが十両に上がると給料が支払われるようになり、大銀杏を結って絹のまわしを締め、華麗な化粧まわしを締めて土俵入りする晴れ姿を披露できる、雪ヶ谷はホープとみなされているから声援も多い。
そして素質に優れるので普通に稽古しているだけでその地位を守ることができた。
だが、一番のライバルと心に決めている武蔵光に敗れ地位も逆転され、雪ヶ谷は自分に問いかけざるを得なかった。
武蔵光は高い目標に見合うだけの努力を払って強くなった、自分はそれだけの努力を払って来たのか。
武蔵光は自分の弱点を克服して番付を上げて来た、自分はどうか、今のままで上を目指せるのか。
そして……武蔵光は上位でも通用する取り口を身に着けた、彼のことだ、その取り口をさらに磨いて強くなって行くだろう。
(あいつにだけは負けられない!)
雪ヶ谷の闘志に再び火が付いた。
翌日からの稽古場、目の色を変えて稽古に励む雪ヶ谷の姿があった、『いつもの立ち合い』に固執せずに様々な立ち合いを試している。
「やっと目が覚めたか」
師匠が声をかけてくれたが、厳しい言葉も投げかけられた。
「自分から強くなりたいと思って課題に取り組まない奴には教えん、どうせ身につかないし、本場所では安易に勝てる方に流れるもんだ、もしもっとずっと上を目指したいと思うなら、俺の言うことを守れ、それで負けても迷うな、稽古の成果なんてすぐに出てくるもんじゃない、三年先のための稽古を今するつもりでなければだめだ」
「お願いします」
雪ヶ谷は師匠に深々と頭を下げた。
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だが、師匠が言うように三年はかからなかった。
次の場所、一旦は幕下に落ちた雪ヶ谷だったが、右からかち上げ気味に当たり、左で前まわしを取る立ち合いを心がけるようになった。
作品名:お前だけには負けられない! 作家名:ST