Jane Doe
その声のトーンに、村瀬は思わず振り返った。あのノアが駐車場に停まっていて、夫婦と小学生ぐらいの子供が入ってきたところだった。慌てて目を逸らせようとした村瀬は、先に入って家族のためにドアを押さえている男を見た。くたびれたジーンズに、くたびれた緑色の上着。家族連れの夫が言った。
「すみませんね」
家族全員がその男に一礼し、男はドアを押さえる用事から解放されたように、伊波の席へと歩いて行った。家族連れは、伊波が座る側とは反対側のテーブルに落ち着き、香苗がお冷を用意して運び出したとき、耕助がカウンター越しに向かい合った村瀬に言った。
「まずいなあ」
言葉に出したからといって、何も変わらない。村瀬は、目の前に置かれたお冷をひっくり返した。耕助が目を丸くして、言った。
「大丈夫ですか?」
「すみません、こぼしちゃいました」
香苗が台拭きで水を拭き上げるのを見ながら、村瀬は三つ隣の席へ移動し、真後ろとまではいかないが、伊波の声がしっかり聞こえるぐらいには近づいた。村瀬のもとに新しいお冷が運ばれてくるのと同時に、伊波が男に言った。
「注文しといたよ」
レバニラ定食は男が食べるためのものだったらしく、皿を滑らせる音が聞こえた。男はしばらく黙っていたが、数分の沈黙の後、ようやく口を開いた。
「忘れ物だ」
「何?」
「いや、金」
さっき振り返ってその姿を見たときは、確かに小さなカバンしか持っていなかった。伊波の呆れたような笑い声に、再び鈴が鳴る音がして、村瀬は振り返った。駐車場まで歩いていく男の後ろ姿が見えた。黒のチェイサーが停まっていて、そのトランクを開いて大きなカバンを取り出した男は、それを肩に担ぎ、後部座席からポーチを取り出した。戻ってくるのと同時に村瀬が目を逸らせると、席に着いた男に伊波が言った。
「焦りすぎだろ。不安にさせちゃったな」
香苗が家族連れから注文を取り、厨房へ入っていった。耕助は双方の様子を伺いながら、カウンターの下で縮こまる里川と目を合わせ、首を横に振った。里川は小声で言った。
「何が起きてる?」
「別の客がいる。ここでは無理だ」
耕助は小声で言うと、香苗の取った注文を確認しながら、冷蔵庫を探り始めた。
男はまだ料理に手を付けていない様子だった。村瀬が耳を澄ませていると、伊波が言った。
「用意は?」
「今、一緒に持ってきた。何人だ?」
「こいつと、カウンターの後ろに銃を持ったのが一人」
村瀬は思わず振り返った。伊波は鈴野から皿を取り上げ、割り箸を割って一口食べると、村瀬の方を向き、笑顔で続けた。
「あんた、百舌のはやにえって、知ってるか?」
呆然とした表情が顔から取れなくなっていたが、それでも村瀬は答えた。
「獲物を串刺しにする鳥だろ」
「満腹でも殺すんだ。人間にも、そういう奴がいる。だからおれたちは、モズって呼んでる。こいつもその一人だ」
割り箸で突き刺すように、伊波は男の顔を指した。その品のない動きはスーツに全くそぐわず、表情を変えずに声だけで笑った男ですら、そう思っているようだった。
「失礼な呼び名だよな。俺は鈴野って言うんだ」
まるで握手でも求めるような口調だったが、テーブルの下に置いた手には、平たい拳銃が握られていた。鈴野は、レバニラを食べる伊波に視線を戻すと、檻に入った動物を見るように眺めながら、村瀬に向けて呟いた。
「後学のために、覚えときな。色んな合図があるんだ。俺は、レバーが苦手でね」
「おれは大好物なんだけどな。ここのは初めて食うけど、うまいな」
伊波は食べる勢いを緩めることなく、器用に笑った。鈴野は村瀬に言った。
「あんた、左手はどうした? 強盗事件が起きてるらしいが、そのホシなのか?」
村瀬が答えないでいると、そのまま会話は終わり、伊波が忙しなく野菜を噛む音だけが響いた。香苗が何事も起きていないかのように、料理を三つ、家族連れの前に運んだ。
佐岡洋平は、SNSの口コミでユニオンのことを知った。妻の和佳子は同い年で、息子の亮也が十歳を迎える頃には二人とも三十五歳になるのかと笑っていたら、いつの間にかその年になっていた。付き合っていた頃は全国を電車で旅して、有名なお菓子や食べ物はほとんどを制覇した。元々は和佳子の趣味だったが、亮也が成長してから『現役復帰』の提案をしたのは、洋平だった。洋平は、和佳子に小声で言った。
「意外に、愛想がないもんだな」
店主は顔が強張っているし、運んできてくれた店主の妻らしき女性も、笑顔は作っているものの、朝からずっと心配事を抱えたまま一日を過ごしてきたように、落ち着きがなかった。
「忙しいのよ。人間だもん」
和佳子はいつも、食べることしか頭にない。洋平は笑いながら、ぐるりと店内を見回した。客はカウンターに座る男と、テーブル席に座る二人だけだ。三人は顔を見合わせて、何か話している。地元の人間だけが集う、地元のための店。
「伸びるよ」
亮也が言った。洋平は割り箸を割って、自分が注文したきつねうどんを見下ろした。わざとらしく鼻の下を伸ばすと、亮也は笑った。
「お父さんが伸びてどうすんの」
和佳子は、棒棒鶏定食を一口食べながら、言った。亮也はハンバーグ定食を食べ始めると、周りに人などいないかのように無言になった。和佳子は、洋平に言った。
「ほんとに同時に出て来たね。スーパーマンみたいな主人だわ」
「予知能力があるんじゃないか」
洋平は言いながら、店主の方をちらりと見た。独り言を呟くように、口元が動いていた。
「あんた、一杯食わされたんだ。諦めな」
耕助は最小限の音量で言った。里川は目を伏せた。最後の方しか聞こえなかったが、内容は分かった。鈴野と呼ばれた男の声はよく通り、村瀬と話しているのが分かった。
「ヤバイのか?」
「伊波は、あんたがそこにいることをバラしちまったよ。家族連れが食い終わるまでに、出て行くだろうね」
里川はため息をついた。耕助は初めて視線を落として、言った。
「あんた、逃げたいか? 裏口から出りゃ、見られずに済むが。心配すんな、今さら通報する気もない」
里川は拳銃をベルトに戻しながら、考えた。会話は止まっているが、村瀬はあの二人と向き合っているはずだ。一旦外に出て、待ち伏せすればいいのではないか。出てきたら、二人とも殺せばいい。銃を外で撃つことになるが、家族連れがいないなら、同じことだ。厄介な相手を始末したら、そのまま店に戻って、耕助と香苗を殺す。総取りだし、これで目撃者はいなくなる。
「……そうだな」
里川が言うと、耕助はそろりと足を踏み出し、頭を下げるよう里川に手で促しながら厨房へ入った。耕助に指された通りに、ほとんど四つん這いの体勢で厨房を抜けた里川は、立ち上がると、全身から流れ出していた汗が一斉に冷え込んだように身震いした。
「くそっ、うまくいかないもんだな」
裏口につながる薄暗い廊下で、里川はかぶりを振った。追いついた耕助は、里川の後ろ姿に言った。
「あんたらは、何年も強盗をやってきたのか?」
「同級生なんだよ。学生時代の」
里川はそこまで言って口をつぐみ、耕助に皮肉めいた笑顔を向けた。
「おっと、言いすぎたな。あんたまで殺す羽目になっちまう」